與那覇潤の
『日本人はなぜ存在するか』を読みました。
【目的】
グローバル時代に求められているのは「ハイコンテクスト」なものを「ローコンテクスト」なものに翻訳する力である。本書では「日本」という極めて「ハイコンテクスト」な社会に生きている我々が自明視している「日本人」について、様々な学問的方法論を用いながら、その「ハイコンテクスト」性を露わにしつつ「日本人」のローコンテクスト化を図る。
【目次】
第1章 「日本人」は存在するか
第2章 「日本史」はなぜ間違えるか
第3章 「日本国籍」に根拠はあるか
第4章 「日本民族」とは誰のことか
第5章 「日本文化」は日本風か
第6章 「世界」は日本をどう見てきたか
第7章 「ジャパニメーション」は鳥獣戯画か
第8章 「物語」を信じられるか
第9章 「人間」の範囲はどこまでか
第10章 「正義」は定義できるか
【要約】
第一章
国籍・日本語能力・民族的血統・現居住地いずれの観点からも「日本人」は定義し得るため、一義的な定義は難しい。認識論的に考えれば、は初めから実体として存在する「日本人」を我々が認識しているのではなく、我々が「日本人」として認識したものが、日本人として出現しており、会話の文脈によってその定義が移り変わる
再帰的なものである。そして、人間が相互作用しながら作り上げている社会はあらゆるものが再帰的に存在するという見方で見るのが社会学であり、社会学的立場からすると近代とは下記のように定義される。
「(前近代の文明では、再帰性は依然伝統の再解釈と明確化だけにほぼ限定されており・・・・)しかし近代の社会生活の有す再帰性は、社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる」(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』)
第二章
既に終わった過去たる歴史も我々は再帰的なものであり、歪みが発生しうる。それは我々は「物語」を作ることなく広大な歴史を理解するが、その「物語」を後の出来事を知っている「現在」から構築するからである。我々は後から構成した「物語」に都合の良い事実のみに着目したり、結末を知っているが故に「解釈」を加えてしまったりするのである。
第三章
国籍も人為的に作られたものであり、再帰的な存在である。国籍制度には「血統主義」と「生地主義」という2種類の考え方がある。日本では「血統」を重視する「伝統」があるという立場から「血統主義」を採用しているが、実際には「家制度」と「血統主義」の間で揺れ動いてきた。そもそも「血統」が指すものは社会や時代によって変わりうる上、「血のつながり」という考え自体が再帰的なものなのである。
第四章
民族という概念は、政治権力から疎外されたり、ある国家の中で自分たちはマイノリティ(数の多寡ではなく、政治的弱者)だと感じている人々が、自分たちのアイデンティティを表明して、異議申し立てをするための道具として始まった。国民と民族という別個のアイデンティティのユニットは「再帰性はふたつ組み合わせることで、ひとつのときよりも安定する」言葉のように組み合わさることで安定性を生み出した。しかし、憲法による法律のコントロールと比べて民族の概念によって国民国家を制御する仕組みは、最初から単一の回答が社会から要請されており、グレーゾーンが許容されないためにしばしば暴走を起こす。
第五章
文化は「その国に古くからずっとあって、いまも変わらない伝統的なもの」という印象があるが、この単語の初期の意味は「過程」であった。そして我々は文化に関して多くの誤解をしている。第一にそれは必ずしも「古くから変わらないもの」ではなく時代に応じてつねに変化してゆく。第二に、文化とは「国別」に分かれているとは限らず、むしろ国境を越えて共有される。第三に「政治とは違って、中立的で平和裏なもの」といったニュアンスがあるが、文化を享受するという体験自体が実際には政治的営みである。日本文化も戦前は「海外から新しいものを取り入れて進化するのが当たり前だ」と考えられていたが、その発想が戦争敗北により大東亜共栄圏の夢とともに挫折すると、反省として「各国の文化は固有であり、安易に変えられないし、混ぜあわせられない」と考えられるようになったのかもしれない。このように文化も再帰的なものである。今日行われている「文化」の認定も「無標」に対して「有標」になる、つまりスタンダートではない特殊なものと認められているという観点から考え直すと一概に喜べるものではないと分かる。
第六章
西洋・白人・男性の文化が有票化されず、無標のスタンダードとみなされる近代世界では日本人に対する認識も、「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な(中心の側に都合の良い)現実世界の構築によって作られたものかもしれない。日本人論は世界において有標化された日本が、特殊性を合理化、ないしはその特殊性を乗り越えて「普通」と認めてもらうためのツールであった。「世界」をどこかよそから自国に迫ってくる存在として他律的に捉えてその評価を気にするという思考様式自体が、周縁化された地域の特徴なのである。
第七章
「ジャパニメーション」の受け入れられ方の違いは各国の再帰的な価値観に依るものである。どのような表現が自然に行け入れられるかは各国の時代背景に依るものであり、安易に「伝統」や西洋の影響に結びつけてはならない。もっと相対化された「新歴史主義」「ポストコロニアリズム」的な視点からの検証が必要なのである。これらの「周辺」の地域から考える考え方を導入した場合、「ジャパニメーション」も実は近代西洋以上に普遍的な文化を発信する「中心」でありうるかもしれないのである。
第八章
「日本」や「日本人」は再帰的なものであり、一義的な定義ができない不安定なものであったが消滅してはこなかった。それは我々が「物語」を通して、「日本」という観点からものごとを捉え、認識し続けているからである。しかし、1970年代後半頃から物語の再帰性が露わになり、世界は「大きな物語の終焉」を迎え、社会に共同体性を創りだすような力が、物語から失われていった。
第九章
「大きな物語の終焉」に対して我々は国民国家という枠組みを放棄して「人類共同体」として生きればよいかと言えばそうではない。物語の再帰性は価値を否定しない上「人類」もまた再帰的なものに過ぎないからである。我々は近代になって進歩したつもりでいるが、結局再帰性のループからは逃れられていない。「この世界が再帰的であること」の認知は伝統から我々を開放してくれる喜びに満ちた体験であったが、ポスト近代の今我々は「全てが再帰的であり、自分の責任であること」を知って苦しんでいる。自己決定的な再帰性故に代替選択肢は数多く存在し、それに対して我々は立ち止まざるを得なくなっているのである。
第十章
我々は意識しているかしていないかに関わらず、ものごとの決定基準たる「正義」を決定している。しかし、「功利主義」も「自己決定」もあらゆる「正義」は再帰的なものにすぎないため、どんなに理詰めをしても、どこかで我々の直感に反する部分が生ずる。この点において東洋思想の素朴な感情や反応を出発点とする思考様式が魅力的に映るが、両者に長短があるわけで一方への傾斜が良い結果をもたらすわけではない。我々はそのような再帰性の不適合があるからこそ常に今の秩序を相対化し、自分たちの「正義」を優れたものにしていけるのである。そして、周囲の環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーだけで通用する現実に作り上げることが人間の本質であり、人間のみじめさと、偉大さと、せつなさと、すばらしさと、そのすべてがある。
【感想】
各学問の方法論について分かりやすく知れたのは勿論、「再帰性」という言葉を知れたのは良かった。家族との血のつながりというものも再帰的なものであるということは衝撃的であり、自分が普段あらゆるものを再帰的に定義していることが良く分かった。本書の最後にもあるように「大きな物語が終焉」する、ものごとがより相対化した今において、その選択肢の多さや再帰性に絶望するわけではなくて、その自由度や余地をポジティブでより良い世界に生きていきたいと思った。常日頃から思っていた「あらゆるものが相対化する中でも、日和見主義に陥らずに色々な選択肢を検討した上で自分の信念を持って生きていきたい」ということは、自らの意見の再帰性を認識した上でも、力強くそれを再構成し同じ社会のメンバーで(少なくとも自分と同じ意見を持っている人と)通用する現実に作り上げていくことなんだと思った。
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