菅原教夫氏著作の『
現代アートとは何か』についての書評。(読んだのは新書ではなく単行本)
【目的】
現代アートとは何かという問いに答える。現代アートで頻用されるインスタレーション、現代絵画の状況、現代思想との交わりの3点から説明を試みる。
<それぞれのキーワード>
・美術館からの飛び出し、プレモダン、新しいあり方(ツーウェイ・仮想現実)
・純化・還元とその限界を越えて
・思想との交わり、アートの拡張・概念化、場の拡張
【要約】
第一章
アートの現在
制作の場所や歴史や社会に関わる作品もある一方で、平凡な日常から隔絶された個別のゾーンを画そうとする作品にも出会う。
インスタレーションには美術館に収蔵されて良いものと、そうでないものがある。この問題を考える上で重要なのが、インスタレーションと美術館の関係。
「このように、ある特定の場所に置くことを前提に制作が進められた彫刻が、そのスペースから切り離されて展示されるようになったのは、近代の美術館の制度に従ったからだった。近代の美術館のスペースはホワイトキューブと形容されるニュートラルな性格を持っている。そこは空間の個性を排除することによって、作品の自立性を際立たせる作りなのであり、見るものの関心を作品の造形性に集中させるためにある。もし作品が場所の固有性から分離できるものであれば、それがどこに置かれてようとその意味は変わらないということになって、作品は確かに自立性を獲得する。この自立性こそはモダニズムの美術の特徴なのであり、作品のコスモポリタン的な性格を形作ってきたのだった。というのも消費社会はあらゆるものを商品化せずにおかないが、作品の移動可能性が作品の商品性を保証したからである。~~作品が特定の場所から切り離されたことが芸術の商品化を進めてきた、と言うことができる」
元来特定の場所に置くことが前提に制作されていた作品が、美術館により特定の場所から離された作品は本来持っていた作品の意味の一部を失うことに。
彫刻が抱えていた美術館の空間に対する不満は、60年代の美術の転換期において美術館を飛び出す制作に結実する。60年代のドラスティックな美術の転換とは、それまでの「絵画=彫刻=美術」という図式からの離脱を意味している。
美術館によって保証されてきた、ルネサンス以来の真実や美や古典といった伝統の価値にたんに寄りかかっている絵画や彫刻が美術のトップであるという構造が糾弾された。(機能を奪われた人工物などにも関心が向くように)
二十世紀のモダニズムは他人の事や社会を考えず複雑な現実から逃れて作品の中に人に侵されない聖域を築くことが課題であり、エリート主義を招いた。その反動で社会性を持った作品が登場。
モダニズムの行き詰まりは海・光・森など近代以前のプレモダンへの視点を提供。
新しいメディア(映像など)による可能性。機械と対話するツーウェイのシステムや、実際の揺れを伴って異次元の空間を旅するといった仮想現実の空間は、やはりこれまでの人間像を徐々に変えていくだろうという点で、ポスト・ヒューマンの美術への導入をなすものに相違いない。
第二章
絵画の行方
マティスの原色で描くフォービズムとブラックと共にピカソが気づいたキュビズムが20世紀の絵画に革命を起こした。
そもそも西洋の近代美術の歴史を振り返ってみると、非西洋の美術からの摂取によって、近代の美術を作ってきたと言える面がある。西洋のモダニズムの美術はマネから始まると一般的に言われるが、マネ以降の十九世紀後半の西洋美術は、日本の浮世絵から大きな影響を受けた。~~同じ事がピカソのアビニョンの娘たちの場合には黒人彫刻からの影響という点において見られる。キュビズムの革命もやはり非西洋の美術との接触によってもたらされたのである。
「デフォルメ」とう概念は写実性が写真の影響で絵画から奪われたから。黒人彫刻はもともと写実性ではなく乳房や性器の誇張があった。(西洋との違い)
このようにアートは西洋と黒人社会で違うがそもそもなにか?
アメリカの批評家ダントによると「アートとは思想や内容を体現し、ある意味を表すものである」
西洋近代美術では用途を持つものは一般にアートとは考えられないのだが、この籠・壷をそれぞれ大切にする部族はその認識を裏切っていてアートの定義をその意味で拡張する。
20世紀の美術ではデュシャンやバーンズなどにより用途から切り離されたものがアートだという考えに挑戦が行われた。
マティスを評価したアメリカのフォーマリズム批評家グリーンバーグによるとアメリカは西洋と違い美術の伝統がなかったためたえず新しさを求めてやまない戦後の前衛美術の中心になった。
実際戦後の美術の最高のものはアメリカから生まれた。戦後のアメリカ美術はヨーロッパの前衛美術の正統を刷新して継承するものだった。
グリーンバーグによるとアバンギャルドは
「西洋では十九世の半ばに、芸術がデカダンに侵されているという危機感があった。アバンギャルドとはボードレールやフルベールらがその危機を克服するために、過去を模倣することなく西洋の宝物を生み出す方法を模索した運動だった。つまり確信を通じてティツィアーノやシェークスピアに匹敵する作品を創りだそうとしたのである。アヴァンギャルドはただたんに新しければいいというものではない。1850年代つまりマネの時代から美術の原則となってきたことは、質的には劣っている作品が前面に出て、最高のものは二十年間は埋もれる運命にあり続けたことである」
(ポップ・アートやミニマルアートやコンセプチュアルアートへの批判は、作品の質が悪いかマイナーで退屈なのにもかかわらず、人々がこの作品はどのような意味なのだろうと不思議に思うことによって美術たり得ていたに過ぎないから)
過去を模倣すること無く西洋の宝物を生み出す方法」はメディアに固有の要素をはっきりさせ、それに耐えざる事故批判を加えていくこと。絵の固有の要素とは大きさが限定された平らな面であること。
→まず具象絵画が切り捨てられる抽象へ、平面に三次元を描こうとするのは絵画の平面性に矛盾、物語を描くことも文学にも備わっております絵画固有ではな
「芸術における純粋性とは、その芸術のメディウム(媒体)の限界を受け入れること、それを喜んで受け入れることにある。~~それぞれの芸術が独自であり、漠然としてそれ自体であるのは、そのメディウムによってなのである」(美術固有のメディウムとは絵画における絵の具やキャンバスのこと、絵に書かれた主題は重要ではない。絵が自然に従属してはならず、メディウムの方が圧倒しなければならない。)
→平面性を意識し、不純物を極限まで除いたミニマルペインティング・ポストペンタリーなどが生まれる
行き詰まりに対しては絵を国外の視点やほかの芸術の視点も取り入れて広く捉え直そうとする運動などが起きる
※グリーンバーグはミニマルペインティングがモダニズムの終着点と考えていたわけではない
第三章
アートと現代思想
ミニマル・アートに行き着いたモダニズムの美術は、そこからの発展が難しくなった。「純化」「還元」を規範にするモダニズムの枠組みではそれ以上進んだ新しい美術は望めなくなったからである。
そこでポストモダンという既存のイメージを使って、つまり引用という方法によって、何かを語りかけようという美術が生まれた。
ポストモダンは主題が画一的ではないため一般化が難しく、現代の文化に批判・批評するが積極的につくろうという価値も明らかではない。
ポストモダンの思想的準備は、構造主義・ポスト構造主義へとつながる価値の相対化。それにより美術においてもモダニズムの権威に反抗が加えられた。ポストモダンの美術は作品の権威の根底にある構造を探る動きなのである
but非西洋の文化をその原形によってありのままに見ようとする態度も、結局は西洋内部の反省ないしは不安に基づく思考の組み換えから来ている
→ポストモダンは西洋の論理、日本ではやらず
ex.レヴィ=ストロースが熱帯の民族文化、野生の思考に熱狂しながら、その分析において、西洋の合理的な知性を介していたこととどこかつながっている(自己を相対化し相手の価値を受け入れ相手の価値判断も尊重したが分析は西洋的)
ポストモダンの美術が示したのは、その概念性。それは個々の作品のスタイル、視覚性を問うよりも、文化に対する考え方、態度を重視しており、それが興味の対象となる。
この制作が概念的だからこそ、作家たちの発言はそこで重要な作品の構成要素になっている。モダニズムの美術においては、作品が全てであり、作家たちの発言はそれを理解する上での補助的なものであったのと異なる。
こうなるとアートの意味も変わらざるを得ない。19世紀に美術館によって社会のエリートから大衆へアートが開放された。それは当初から妥協的な性格を持っていたのは事実だが市民にそこに展示されている絵画と彫刻がアートだという認識を広めた。それに対して60年代以降美術館を飛び出す従来の美術の枠組みを壊す作品が誕生。アートの概念が拡張。
アートは社会や歴史に応じて対称が変わるため定義が難しいが、コスースが唱えたように美術作品とはそれ自体がアートの定義であると言える。アートは従来の定義からはみだす価値をそこに付け加えることが出来てこそアートである。よってアートは従来のアートが持っていなかった価値観をたえずそこに導入していくことになる。そこではグリーンバーグが批判する「アート以外の価値観」がむしろ積極的に迎え入れられる。したがって美術を理解する方法もまた、従来の美術のやり方にとどまるものではない。様々な知見を総動員して、その解釈を実りあるものにするのが、新しいアートの本意いn沿うものである。実際、六十年代以降の美術を解釈する有効な武器として、人々は科学や哲学といったさまざまな分野の成果を援用してきた。
・現象学とミニマル・アート
それらは作品の内部には意味を見つけられない。一切のものを排除した絶対の世界で作品の置かれた空間、見る人、当の作品が関係する外部の場において意味が与えられる。
・ウィトゲンシュタインとポップ・アート
難解な言葉ではなく日常の言語、外的言語で語る必要性が与えられた。
※多分モダニズムの終着点たるミニマル・アートと現象学的解釈をされるポストモダニズムのミニマルアートは別物という想定
ポストモダンは積極的な価値をまだ作れていないが、我々は新しい絵画を渇望する。プルーラリズム・マルチカルチュラリズムに表現されるが結局方向性を持てないポストモダニズムは結局それぞれの固有のルールが交錯する場となるか、共有できる普遍的価値を見出すかは分からない。
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