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現代アートとは何か【書評】

菅原教夫氏著作の『現代アートとは何か』についての書評。(読んだのは新書ではなく単行本)


【目的】
現代アートとは何かという問いに答える。現代アートで頻用されるインスタレーション、現代絵画の状況、現代思想との交わりの3点から説明を試みる。

<それぞれのキーワード>

・美術館からの飛び出し、プレモダン、新しいあり方(ツーウェイ・仮想現実)
・純化・還元とその限界を越えて
・思想との交わり、アートの拡張・概念化、場の拡張
【要約】
第一章
アートの現在
制作の場所や歴史や社会に関わる作品もある一方で、平凡な日常から隔絶された個別のゾーンを画そうとする作品にも出会う。
インスタレーションには美術館に収蔵されて良いものと、そうでないものがある。この問題を考える上で重要なのが、インスタレーションと美術館の関係。
「このように、ある特定の場所に置くことを前提に制作が進められた彫刻が、そのスペースから切り離されて展示されるようになったのは、近代の美術館の制度に従ったからだった。近代の美術館のスペースはホワイトキューブと形容されるニュートラルな性格を持っている。そこは空間の個性を排除することによって、作品の自立性を際立たせる作りなのであり、見るものの関心を作品の造形性に集中させるためにある。もし作品が場所の固有性から分離できるものであれば、それがどこに置かれてようとその意味は変わらないということになって、作品は確かに自立性を獲得する。この自立性こそはモダニズムの美術の特徴なのであり、作品のコスモポリタン的な性格を形作ってきたのだった。というのも消費社会はあらゆるものを商品化せずにおかないが、作品の移動可能性が作品の商品性を保証したからである。~~作品が特定の場所から切り離されたことが芸術の商品化を進めてきた、と言うことができる」
元来特定の場所に置くことが前提に制作されていた作品が、美術館により特定の場所から離された作品は本来持っていた作品の意味の一部を失うことに。
彫刻が抱えていた美術館の空間に対する不満は、60年代の美術の転換期において美術館を飛び出す制作に結実する。60年代のドラスティックな美術の転換とは、それまでの「絵画=彫刻=美術」という図式からの離脱を意味している。
美術館によって保証されてきた、ルネサンス以来の真実や美や古典といった伝統の価値にたんに寄りかかっている絵画や彫刻が美術のトップであるという構造が糾弾された。(機能を奪われた人工物などにも関心が向くように)
二十世紀のモダニズムは他人の事や社会を考えず複雑な現実から逃れて作品の中に人に侵されない聖域を築くことが課題であり、エリート主義を招いた。その反動で社会性を持った作品が登場。
モダニズムの行き詰まりは海・光・森など近代以前のプレモダンへの視点を提供。
新しいメディア(映像など)による可能性。機械と対話するツーウェイのシステムや、実際の揺れを伴って異次元の空間を旅するといった仮想現実の空間は、やはりこれまでの人間像を徐々に変えていくだろうという点で、ポスト・ヒューマンの美術への導入をなすものに相違いない。
第二章
絵画の行方
マティスの原色で描くフォービズムとブラックと共にピカソが気づいたキュビズムが20世紀の絵画に革命を起こした。
そもそも西洋の近代美術の歴史を振り返ってみると、非西洋の美術からの摂取によって、近代の美術を作ってきたと言える面がある。西洋のモダニズムの美術はマネから始まると一般的に言われるが、マネ以降の十九世紀後半の西洋美術は、日本の浮世絵から大きな影響を受けた。~~同じ事がピカソのアビニョンの娘たちの場合には黒人彫刻からの影響という点において見られる。キュビズムの革命もやはり非西洋の美術との接触によってもたらされたのである。
「デフォルメ」とう概念は写実性が写真の影響で絵画から奪われたから。黒人彫刻はもともと写実性ではなく乳房や性器の誇張があった。(西洋との違い)
このようにアートは西洋と黒人社会で違うがそもそもなにか?
アメリカの批評家ダントによると「アートとは思想や内容を体現し、ある意味を表すものである」
西洋近代美術では用途を持つものは一般にアートとは考えられないのだが、この籠・壷をそれぞれ大切にする部族はその認識を裏切っていてアートの定義をその意味で拡張する。
20世紀の美術ではデュシャンやバーンズなどにより用途から切り離されたものがアートだという考えに挑戦が行われた。
マティスを評価したアメリカのフォーマリズム批評家グリーンバーグによるとアメリカは西洋と違い美術の伝統がなかったためたえず新しさを求めてやまない戦後の前衛美術の中心になった。
実際戦後の美術の最高のものはアメリカから生まれた。戦後のアメリカ美術はヨーロッパの前衛美術の正統を刷新して継承するものだった。
グリーンバーグによるとアバンギャルドは

「西洋では十九世の半ばに、芸術がデカダンに侵されているという危機感があった。アバンギャルドとはボードレールやフルベールらがその危機を克服するために、過去を模倣することなく西洋の宝物を生み出す方法を模索した運動だった。つまり確信を通じてティツィアーノやシェークスピアに匹敵する作品を創りだそうとしたのである。アヴァンギャルドはただたんに新しければいいというものではない。1850年代つまりマネの時代から美術の原則となってきたことは、質的には劣っている作品が前面に出て、最高のものは二十年間は埋もれる運命にあり続けたことである」
(ポップ・アートやミニマルアートやコンセプチュアルアートへの批判は、作品の質が悪いかマイナーで退屈なのにもかかわらず、人々がこの作品はどのような意味なのだろうと不思議に思うことによって美術たり得ていたに過ぎないから)
過去を模倣すること無く西洋の宝物を生み出す方法」はメディアに固有の要素をはっきりさせ、それに耐えざる事故批判を加えていくこと。絵の固有の要素とは大きさが限定された平らな面であること。
→まず具象絵画が切り捨てられる抽象へ、平面に三次元を描こうとするのは絵画の平面性に矛盾、物語を描くことも文学にも備わっております絵画固有ではな
「芸術における純粋性とは、その芸術のメディウム(媒体)の限界を受け入れること、それを喜んで受け入れることにある。~~それぞれの芸術が独自であり、漠然としてそれ自体であるのは、そのメディウムによってなのである」(美術固有のメディウムとは絵画における絵の具やキャンバスのこと、絵に書かれた主題は重要ではない。絵が自然に従属してはならず、メディウムの方が圧倒しなければならない。)
→平面性を意識し、不純物を極限まで除いたミニマルペインティング・ポストペンタリーなどが生まれる
行き詰まりに対しては絵を国外の視点やほかの芸術の視点も取り入れて広く捉え直そうとする運動などが起きる
※グリーンバーグはミニマルペインティングがモダニズムの終着点と考えていたわけではない
第三章
アートと現代思想
ミニマル・アートに行き着いたモダニズムの美術は、そこからの発展が難しくなった。「純化」「還元」を規範にするモダニズムの枠組みではそれ以上進んだ新しい美術は望めなくなったからである。
そこでポストモダンという既存のイメージを使って、つまり引用という方法によって、何かを語りかけようという美術が生まれた。
ポストモダンは主題が画一的ではないため一般化が難しく、現代の文化に批判・批評するが積極的につくろうという価値も明らかではない。
ポストモダンの思想的準備は、構造主義・ポスト構造主義へとつながる価値の相対化。それにより美術においてもモダニズムの権威に反抗が加えられた。ポストモダンの美術は作品の権威の根底にある構造を探る動きなのである
but非西洋の文化をその原形によってありのままに見ようとする態度も、結局は西洋内部の反省ないしは不安に基づく思考の組み換えから来ている
→ポストモダンは西洋の論理、日本ではやらず
ex.レヴィ=ストロースが熱帯の民族文化、野生の思考に熱狂しながら、その分析において、西洋の合理的な知性を介していたこととどこかつながっている(自己を相対化し相手の価値を受け入れ相手の価値判断も尊重したが分析は西洋的)
ポストモダンの美術が示したのは、その概念性。それは個々の作品のスタイル、視覚性を問うよりも、文化に対する考え方、態度を重視しており、それが興味の対象となる。
この制作が概念的だからこそ、作家たちの発言はそこで重要な作品の構成要素になっている。モダニズムの美術においては、作品が全てであり、作家たちの発言はそれを理解する上での補助的なものであったのと異なる。
こうなるとアートの意味も変わらざるを得ない。19世紀に美術館によって社会のエリートから大衆へアートが開放された。それは当初から妥協的な性格を持っていたのは事実だが市民にそこに展示されている絵画と彫刻がアートだという認識を広めた。それに対して60年代以降美術館を飛び出す従来の美術の枠組みを壊す作品が誕生。アートの概念が拡張。
アートは社会や歴史に応じて対称が変わるため定義が難しいが、コスースが唱えたように美術作品とはそれ自体がアートの定義であると言える。アートは従来の定義からはみだす価値をそこに付け加えることが出来てこそアートである。よってアートは従来のアートが持っていなかった価値観をたえずそこに導入していくことになる。そこではグリーンバーグが批判する「アート以外の価値観」がむしろ積極的に迎え入れられる。したがって美術を理解する方法もまた、従来の美術のやり方にとどまるものではない。様々な知見を総動員して、その解釈を実りあるものにするのが、新しいアートの本意いn沿うものである。実際、六十年代以降の美術を解釈する有効な武器として、人々は科学や哲学といったさまざまな分野の成果を援用してきた。
 
・現象学とミニマル・アート
それらは作品の内部には意味を見つけられない。一切のものを排除した絶対の世界で作品の置かれた空間、見る人、当の作品が関係する外部の場において意味が与えられる。
・ウィトゲンシュタインとポップ・アート
難解な言葉ではなく日常の言語、外的言語で語る必要性が与えられた。

※多分モダニズムの終着点たるミニマル・アートと現象学的解釈をされるポストモダニズムのミニマルアートは別物という想定
ポストモダンは積極的な価値をまだ作れていないが、我々は新しい絵画を渇望する。プルーラリズム・マルチカルチュラリズムに表現されるが結局方向性を持てないポストモダニズムは結局それぞれの固有のルールが交錯する場となるか、共有できる普遍的価値を見出すかは分からない。
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武器としての決断思考【書評】

【前提】知識・判断・行動の3つをつなげて考えて変化に合わせて自分で暫定的な最善解を出して生きていかなければならない。そのためにディベート思考を身につけることが大切。

【ディベート思考の内容】
<論題を立てる>
①二者択一になるくらい具体的なものを選ぶ(具体的な行動を取るべきか、否かが尚良い)
②議論に値するものを選ぶ
③明確に結論が出るものを選ぶ

※大きなテーマから議論可能な小さな論題に絞っていく


<メリットとデメリットを考える>
メリットの3条件
①内因性(何らかの問題があること)
②重要性(その問題が深刻であること)
③解決性(問題がその行動によって解決すること)

デメリットの3条件
①発生過程(論題の行動を取った時に、新たな問題が発生する過程)
②深刻性(その問題が深刻であること)
③固有性(現状ではそのような問題が生じていないこと)


<反論する>
◇メリットへの反論

・内因性への反論(そんな問題はそもそもないのでは?)
①プラン(論題の行動)を取らなくても問題は解決する
②そもそも現状に問題はない

・重要性への反論(問題だとしても、たいした問題では無いのでは?)
③質的に重要ではない
④量的に重要ではない

・解決性(問題がその行動によって解決すること)
⑤プランを取っても別の要因が生じるため、問題は解決しない
⑥プランは問題の原因を正しく解決しない


◇デメリットへの反論

・発生過程への反論(新たな問題は生じないのでは?)
①プランだけではデメリット発生には至らない(他の条件が必要)
②プランの影響はデメリット発生に至るには弱すぎる

・深刻性への反論(問題が生じたとしても、たいした問題ではないのでは?)
③質的に問題ではない
④量的に問題ではない

・固有性への反論(重要な問題だとしても、既にその問題は生じているのでは?)
⑤プランを取っていない現状でも問題は起こっている
⑥プランを取らなくても、将来同様の問題が起きる


※正しい主張は以下の3点を満たす
①主張に根拠がある
②根拠が反論にさらされている
③根拠が反論に耐えた

主張を支えるのが根拠で、その二者を推論がつないでいる
→推論と根拠に対して反論を加えていく

推論は大別すると下記3つのタイプ。それぞれの考え方の限界を抑えて反論を加える
①演繹
②帰納
③因果関係


<判定>
①上記で考えたメリットとデメリットを整理した上でそれぞれに反論を加える
②反論に3条件が全て耐えたならばそれをメリット/デメリットとして認める
③最後に残ったメリットとデメリットを「質×量×確率」を計算して比較する

日本人はなぜ存在するか【書評】

與那覇潤の日本人はなぜ存在するかを読みました。


【目的】
グローバル時代に求められているのは「ハイコンテクスト」なものを「ローコンテクスト」なものに翻訳する力である。本書では「日本」という極めて「ハイコンテクスト」な社会に生きている我々が自明視している「日本人」について、様々な学問的方法論を用いながら、その「ハイコンテクスト」性を露わにしつつ「日本人」のローコンテクスト化を図る。


【目次】
第1章 「日本人」は存在するか
第2章 「日本史」はなぜ間違えるか
第3章 「日本国籍」に根拠はあるか
第4章 「日本民族」とは誰のことか
第5章 「日本文化」は日本風か
第6章 「世界」は日本をどう見てきたか
第7章 「ジャパニメーション」は鳥獣戯画か
第8章 「物語」を信じられるか
第9章 「人間」の範囲はどこまでか
第10章 「正義」は定義できるか


【要約】
第一章
国籍・日本語能力・民族的血統・現居住地いずれの観点からも「日本人」は定義し得るため、一義的な定義は難しい。認識論的に考えれば、は初めから実体として存在する「日本人」を我々が認識しているのではなく、我々が「日本人」として認識したものが、日本人として出現しており、会話の文脈によってその定義が移り変わる再帰的なものである。そして、人間が相互作用しながら作り上げている社会はあらゆるものが再帰的に存在するという見方で見るのが社会学であり、社会学的立場からすると近代とは下記のように定義される。

「(前近代の文明では、再帰性は依然伝統の再解釈と明確化だけにほぼ限定されており・・・・)しかし近代の社会生活の有す再帰性は、社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる」(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』)

第二章
既に終わった過去たる歴史も我々は再帰的なものであり、歪みが発生しうる。それは我々は「物語」を作ることなく広大な歴史を理解するが、その「物語」を後の出来事を知っている「現在」から構築するからである。我々は後から構成した「物語」に都合の良い事実のみに着目したり、結末を知っているが故に「解釈」を加えてしまったりするのである。


第三章
国籍も人為的に作られたものであり、再帰的な存在である。国籍制度には「血統主義」と「生地主義」という2種類の考え方がある。日本では「血統」を重視する「伝統」があるという立場から「血統主義」を採用しているが、実際には「家制度」と「血統主義」の間で揺れ動いてきた。そもそも「血統」が指すものは社会や時代によって変わりうる上、「血のつながり」という考え自体が再帰的なものなのである。


第四章
民族という概念は、政治権力から疎外されたり、ある国家の中で自分たちはマイノリティ(数の多寡ではなく、政治的弱者)だと感じている人々が、自分たちのアイデンティティを表明して、異議申し立てをするための道具として始まった。国民と民族という別個のアイデンティティのユニットは「再帰性はふたつ組み合わせることで、ひとつのときよりも安定する」言葉のように組み合わさることで安定性を生み出した。しかし、憲法による法律のコントロールと比べて民族の概念によって国民国家を制御する仕組みは、最初から単一の回答が社会から要請されており、グレーゾーンが許容されないためにしばしば暴走を起こす。


第五章
文化は「その国に古くからずっとあって、いまも変わらない伝統的なもの」という印象があるが、この単語の初期の意味は「過程」であった。そして我々は文化に関して多くの誤解をしている。第一にそれは必ずしも「古くから変わらないもの」ではなく時代に応じてつねに変化してゆく。第二に、文化とは「国別」に分かれているとは限らず、むしろ国境を越えて共有される。第三に「政治とは違って、中立的で平和裏なもの」といったニュアンスがあるが、文化を享受するという体験自体が実際には政治的営みである。日本文化も戦前は「海外から新しいものを取り入れて進化するのが当たり前だ」と考えられていたが、その発想が戦争敗北により大東亜共栄圏の夢とともに挫折すると、反省として「各国の文化は固有であり、安易に変えられないし、混ぜあわせられない」と考えられるようになったのかもしれない。このように文化も再帰的なものである。今日行われている「文化」の認定も「無標」に対して「有標」になる、つまりスタンダートではない特殊なものと認められているという観点から考え直すと一概に喜べるものではないと分かる。


第六章
西洋・白人・男性の文化が有票化されず、無標のスタンダードとみなされる近代世界では日本人に対する認識も、「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な(中心の側に都合の良い)現実世界の構築によって作られたものかもしれない。日本人論は世界において有標化された日本が、特殊性を合理化、ないしはその特殊性を乗り越えて「普通」と認めてもらうためのツールであった。「世界」をどこかよそから自国に迫ってくる存在として他律的に捉えてその評価を気にするという思考様式自体が、周縁化された地域の特徴なのである。


第七章
「ジャパニメーション」の受け入れられ方の違いは各国の再帰的な価値観に依るものである。どのような表現が自然に行け入れられるかは各国の時代背景に依るものであり、安易に「伝統」や西洋の影響に結びつけてはならない。もっと相対化された「新歴史主義」「ポストコロニアリズム」的な視点からの検証が必要なのである。これらの「周辺」の地域から考える考え方を導入した場合、「ジャパニメーション」も実は近代西洋以上に普遍的な文化を発信する「中心」でありうるかもしれないのである。


第八章
「日本」や「日本人」は再帰的なものであり、一義的な定義ができない不安定なものであったが消滅してはこなかった。それは我々が「物語」を通して、「日本」という観点からものごとを捉え、認識し続けているからである。しかし、1970年代後半頃から物語の再帰性が露わになり、世界は「大きな物語の終焉」を迎え、社会に共同体性を創りだすような力が、物語から失われていった。


第九章
「大きな物語の終焉」に対して我々は国民国家という枠組みを放棄して「人類共同体」として生きればよいかと言えばそうではない。物語の再帰性は価値を否定しない上「人類」もまた再帰的なものに過ぎないからである。我々は近代になって進歩したつもりでいるが、結局再帰性のループからは逃れられていない。「この世界が再帰的であること」の認知は伝統から我々を開放してくれる喜びに満ちた体験であったが、ポスト近代の今我々は「全てが再帰的であり、自分の責任であること」を知って苦しんでいる。自己決定的な再帰性故に代替選択肢は数多く存在し、それに対して我々は立ち止まざるを得なくなっているのである。


第十章
我々は意識しているかしていないかに関わらず、ものごとの決定基準たる「正義」を決定している。しかし、「功利主義」も「自己決定」もあらゆる「正義」は再帰的なものにすぎないため、どんなに理詰めをしても、どこかで我々の直感に反する部分が生ずる。この点において東洋思想の素朴な感情や反応を出発点とする思考様式が魅力的に映るが、両者に長短があるわけで一方への傾斜が良い結果をもたらすわけではない。我々はそのような再帰性の不適合があるからこそ常に今の秩序を相対化し、自分たちの「正義」を優れたものにしていけるのである。そして、周囲の環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーだけで通用する現実に作り上げることが人間の本質であり、人間のみじめさと、偉大さと、せつなさと、すばらしさと、そのすべてがある。


【感想】
各学問の方法論について分かりやすく知れたのは勿論、「再帰性」という言葉を知れたのは良かった。家族との血のつながりというものも再帰的なものであるということは衝撃的であり、自分が普段あらゆるものを再帰的に定義していることが良く分かった。本書の最後にもあるように「大きな物語が終焉」する、ものごとがより相対化した今において、その選択肢の多さや再帰性に絶望するわけではなくて、その自由度や余地をポジティブでより良い世界に生きていきたいと思った。常日頃から思っていた「あらゆるものが相対化する中でも、日和見主義に陥らずに色々な選択肢を検討した上で自分の信念を持って生きていきたい」ということは、自らの意見の再帰性を認識した上でも、力強くそれを再構成し同じ社会のメンバーで(少なくとも自分と同じ意見を持っている人と)通用する現実に作り上げていくことなんだと思った。

野蛮人のテーブルマナー【書評】

【本の目的】

筆者佐藤優の外交官時代のインテリジェンス活動の経験をベースに、「どのようにすれば、正確な情報を入手し、更にその情報を精査し、そして、こちら側にとって有利な状況を作り出すことができるか」(P.7)というテーブルマナーを紹介すること

【目次】

第一章 野蛮人のテーブルマナー ~情報戦を勝ち抜くテクニック~

第1回 インテリジェンス式接待
第2回 情報源(ソース)の見つけ方
第3回 酒、賭博、セックスの使い方
第4回 赤ワインの2つの顔
第5回 ロシア式懲罰
第6回 暗殺工作のテーブルマナー
第7回 インテリジェンスの記憶術
第8回 組織の中での生き残り方
第9回 相手の知的水準の見抜き方
第10回 AV(アダルトビデオ)業界に学ぶ組織論
第11回 ロシア式飲酒術

第二章 外交は究極のビジネススクール 佐藤優×鈴木宗男

・トップと会うには?
・トップ会談をセットアップせよ
・トップに仕えるノウハウ
・「バカ話」の大切さ
・「挫折からのリカバリー」

第三章インテリジェンス対談 佐藤優×河合洋一郎(国際ジャーナリスト)

(略)


【本文中の気に入った箇所】

”キーパーソンを初めてレストランに連れて行くときは。超高級店を選ぶ。~~中途半端な「安めし」は意味が無い~~中途半端なメシを3回するよりも5万円で1回、相手
の印象に強く残るような食事を奢るのが効果的だ”
これは

「わたしはあなたをこれくらいたいせつにしているんです」
「わたしにはこれだけのカネを使う権限を組織から与えられています」

という2つのことを示すのが目的らしいが一般人の使い道はどうか。悩むところではあるが、仕事上で手にしたい人ならそのまま、口説きたい異性に対しては「メシ」をデートに置き換えて金額以外のインパクトという意味で再解釈すれば利用可能だと思われる。


”実は相手が食事に応じたということで工作は50%成功しているのであるが、自然に次回の接触を約束するためには物の貸し借りをすることが小細工としてよく行われる~~相手が断ることの出来ないような小さな物を「貸してくれと」頼むのがコツだ~~「あなたにあげる」と言ってもそんなことはできない」と遠慮する素振りを見せ、必ず借りることだ。こちらは遠慮しているのではなく、借りたものを返すという口実で3回目の接触を確保しようとしているのだ。”
これは使いやすいかつ、2回目だけでなく3回目にもつなげられるのでとても良いと思う。


”インテリジェンスの世界では、動物行動学(エソロジー)の知識も重要だ。動物は警戒している動物と同じ餌箱からエサを食べることを嫌がる。人間も嫌いな人とは一緒に職をしたくないという心理がある。それを逆用して、一緒に食事をすることで、「あなたにとって私は危険な人物ではない」ということを深層心理に徐々に刷り込んでいくのが食事工作の基本だ。筆者の過去の経験則からすると、同一人物と3ヶ月以内に3回以上、食事をすると、アルコールを伴わなくても、一応の信頼関係はできる。”
半分当たり前のようにも聞こえるが、食事を共にする機会を創出して信頼を得るのはとても良いと思う。最初に2人でというのが難しくとも、複数で卓を囲むことも可能な訳だ。
”(AV産業は)細胞と一緒で、生まれてから死ぬまでがパターン化しているでしょ?だから続くんですよ。一人の子を永久に生き残らせようとすると、永久に生きる細胞って言ったら癌しかないんだから。癌化していくんですよ。~~AV業界はシステムとして見た場合に、生物・有機体的なモデルなんですよね。だから永続する。~~個々のAV嬢には終わりをつけること。これは永遠に続くっていう、余人をもって代えがたいって感じをもつと癌細胞が生まれる。官僚の場合それが顕著で、余人をもって代えがたいと思いたがると。だから癌細胞化するんですよ。逆に個々のAV嬢や官僚に終わりをつけ、新しい細胞を迎え入れることができるようにするとそのシステムは永続する”
極めて面白い観点からの組織の見方だと思う。確かにAV業界の入れ替えりつつシステムとしては安定していることは見習えることがある。



その他
・不満分子に対してアプローチ、認知欲をくすぐるとなおさら良い
・「人柄を知るのに茶なら1念、酒なら1ヶ月、賭博とセックスなら1時間」
・相手が酩酊して漏らした秘密情報について、素面になってから確認しない(ガードが固くなる)
・酩酊した上での相手の醜態を決して非難しない、ひどい目に遭っていても「いや、全然問題ないよ。愉快な酒だった」と答える
・本当に知りたいことが1つしかない場合、それ以外の質問を4つ仕込んでおき、こちら側の真の関心事を隠蔽する
・会話とちょっとした情景を結びつけて、インデックスをつけて覚える
・組織に抗うものは必ず潰される、生き残るためには告発者の側に回ることだ
・偽情報を掴まないために、こちら側で確認できるような引っかけ質問を入れておく
・強い酒(ウォトカやジン)からワイン・日本酒、ビールで締めるという通常の逆をやると酔い潰すことができる
・トップと会うにはトップにいつでも会える人と友達になる

【感想】

半分以上は、面白おかしく外務省やロシアの事例を紹介しているだけなので中身が濃いわけではなかったが読みやすく納得できることもいくつかあった。大体普段の生活で無意識に使っているのではあるが、意識的にこれからは利用出来そうである。また、相手の人柄や人間関係といった情報も外交において極めて大切であることを痛感した。自分も人付き合いの中でしっかり見極めながら立ちまわることを意識していきたい。

ノモンハンの夏【書評】

半藤一利氏著『ノモンハンの夏』を読みました。

【概要】

満州国の地方にある何の重要性もないノモンハンにおける国境紛争が、どのように悪化し大規模戦争に至ったかを描いた歴史小説でした。参謀本部と関東軍作戦かと現場において協調ができなかったことが大きな原因で、紛争悪化と日本の惨敗を招きました。

以下ノモンハン事件の原因・敗因分析としてとてもまとまっており、本書の要約としても機能するので、事件後の研究会で三嶋大佐が行った率直な陳述をご紹介します。(本文中に記載、楠裕二氏の著書より転載とのことです)
(1)ノモンハンで戦わなくてはならない必然的な理由がなんなのか、結局わからずじまいに終わった。

(2)指揮命令の失態、軍事的失敗は下級部隊ではなく、上層部にある。作戦はあまりに煩雑な指揮命令系統と、必要以上に多数の高級将校を経由しなくてはらなかった。

(3)日本軍の装備・組織が不適格であった。とくに、輓馬を使うにいたっては論外である。軽傷を負っただけでも輓馬は役をしなくなる。

(4)広漠たる平原では機動性が決定的に重要である。自動車化が必要である。

(5)(6)不明

(7)ソ連軍を甘く見た。中国船の経験は通ぜず、日本軍は「煉瓦の壁」に突き当たった。

(8)結論として、武士道精神がノモンハンでは間違って解釈されていた。指揮系統という大動脈に地が通っていなかった。何事も公式的、事務的で温かみがなかった。

【気になったところ】

・辻正信の発言「戦争というものは勝ち目があるからやる、ないから止めるというとのではない(略)勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」
→参謀の言葉とは到底思えない。このような根性論を持ち出す人間は参謀になるべきではない、精神論は弊害が多い

・半藤一利の辻正信評「議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、背広姿でふわふわとしたソファに座っているのを、眼前にみる思いを抱いたものであった。」

→辻政信は本書を読む限りとてもひどい人物であるが、絶対悪と言い切るこの評価は痛烈。

【所感】

・昭和天皇は政治的発言や介入をしていた

・現場の暴走ほど厄介なものはない、指揮命令系統との徹底は死活的に重要

・情報収集の必要性。ソ連への侮蔑的な見方、思い込みが悲惨な結果を招いた。ファクトとロジックを元にしない意志決定は、方向性を見失わせその後の方向転換も難しくしてしまう

・戦力の逐次投入は最低

プロフィール

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