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スプツニ考!(Sputniko!) ~生理マシーン、タカシの場合~

今日からはスプツニ子!の作品を1つずつ考えていく。先日書いたとおり、スプツニ子!の作品はあくまで、議論を巻き起こすためのものであり「正解」というものはないので、作者の問題意識や訴えたいテーマについて踏まえた上で自分なりの解釈を書く。


最初に取り上げるのは「生理マシーン、タカシの場合」。最初に取り上げた理由としては、これがスプツニ子!の作品の中で最も衝撃を受けた作品だからである。「生理」というテーマを真正面から扱ったこと、生理を体感できるマシーンを実際に作ったこと、「テクノロジーに関わる女性の数が少ないから女性側の問題が解決されない。生理を男も感じてたら既に解決されている。実際ピルの認証は9年かかったのに、バイアグラは6ヶ月だった。」という問題意識全てが自分にとって新鮮だった。




生理マシーン、タカシの場合




【問題意識】
21世紀を迎え、テクノロジーによってコントロールが可能なはずの生理はなぜまだ起きるのか。性別、文化、宗教などの差異から生理への考え方が異なり、生理をどう扱うかも違っているが、我々にとって生理の持つ意味は何なのか。もし生理が必ずしも必要では無くなった場合、誰が何の理由で生理になるのだろうか。(Sputniko!公式サイトより)



【内容】
まずはオフィシャルサイトの説明から。


「ボクはオンナノコになりたい、オンナノコの気持ちをもっと知りたい!」ーーそんな想いから、こっそり女装を始めるようになった不思議少年<タカシ>。 しかし彼は女性的な外見を装うだけでは満足出来ず、 女性特有の生物現象である<月経/Menstruation>までも 身に着けるために<生理マシーン>を作る。 女性の平均月経量である80mlを5日間かけてタンクから流血し、 下腹部についた電極がリアルで鈍い生理痛を装着者に体感させる<生理マシーン>。タカシはそれを自ら着けて友人と夜のまちへ出かけるが...!?(Sputniko!公式サイトより)
実際の動画は、タカシが部屋で女装してくシーンから始まる。タカシは女装が終わった後、より女性に近づくために、生理マシーンを装着して女友達と遊びにく。プリクラを一緒に撮って楽しんだ後、外を歩いている時にタカシは生理痛に耐えられずしゃがみこんでしまい、トイレにかけこむ。生理痛と生々しい血の滴りを感じながら、タカシは顔を歪めてもだえる。そして、最後には楽しそうに女友達とカラオケを歌っているシーンが移り動画は終了する。歌詞は「生理マシーン」からタカシへ向けた、「女性がどういうことを体験してるか知りたいんでしょ?痛いでしょ?辛いでしょ?でも知りたいんならきちんと体験しないとね?」といった挑発的なメッセージである。




【感想】
生理とは何かということ自体今まで考えたことがなかったので、生理とは何か考える切っ掛けとなったが、生理自体について自分含めた男性陣が少しも考えてことがないこと自体が、男性の女性に対する不理解なのだということを気付かされた。


皆少しは、月一回の辛いモノみたいなことは知っているが、結局自分に関係ないため、やはり意識は向かわないし「本当に大変なの?女が騒いでるだけじゃないの?」みたいな偏見からも逃れられない。しかし、この作品を見て自分がこの生理マシーンを装着することを考えると、その大変さへの想像力が強く喚起され、もっと社会全体で考え取り組んでいくべき問題なのかもしれないと想えるようになった。タカシの苦悶の表情がそれを強く訴えかけてくる。


しかし、この作品は先述の通りジェンダーの問題だけにはとどまらない。生理とは何かという観点からも見ていかなければならない。それは「タカシの場合」という名前が象徴している。実際スプツニ子!も下記のような発言をしている。
”そうですね。例えば「生理マシーン」は男性用だけじゃなくて、もし未来に生理という現象がなくなったときに、女の子たちが自分のアイデンティティを確認するために装着するというシチュエーションも想定しているんです。だから、「生理マシーン、ユミコの場合。」とかも作りたい。そうやって同じコンセプトで曲をたくさん作るということもやっていきたいですね。”(PUBLIC-IMAGE ORG より)
そこで他にどんなシュチュエーションが想定できるかを考えてみた。例えば、上述のテクノロジーによって生理が無くなった世界で自らの身体性や性をを確認したくなった時。閉経した女性が若き頃の体験を思い出すため。女性の気持ちを理解するために保健体育で、男子につけさせるため。生理が来る前の女の子に、その大変さを思い知らせてきちんと準備させるため。小学校高学年の生理が早い子と遅い子の間で扱いや、知識が変わらないように調整するため。色々なパターンが思いついたが、どれも生理とは何かという答えにはなっていない。


もし生理の痛みや辛さが、コントロールできるようになったら生理は不要なのだろうか?自分が主体者ではないこともあってそれはそれで良い気がする。しかしながら、このような問題をそんな簡単に判断して良いのだろうか。そもそもこれは「合理」という観点から判断が許されるべき問題なのだろうか。


仮に生理のコントロールが良いのであれば、我々は自らの身体に他にどこまで、テクノロジーの介入を許すのだろうか?生理だけではなく、精子や卵子、妊娠や出産あど全てコントロールして良いのだろうか?それは「神への冒涜」ではないのだろうか?


ただ、結局私はこのようなテクノロジーが生まれたら是認すべきであると考える。それは、苦痛を避けて快楽へ向かう人間の不可避的な運動であり止められない上、価値判断は個人によって自由に判断されるべきと考えるからである。そして、自分を含めて一定程度そのような身体へのテクノロジーの介入を避ける人々も存在すると思われ、存在基盤を失うことはないと思うからである。


遠くない将来、このスプツニ子!の問題提起は生理という枠組みを超えて、実体的な形で我々に迫ってくるだろう。その時にどのような答えを自分なりに用意できるかをこの動画をベースにもっと考えていきたい。



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スプツニ考!(Sputniko!)

先月行った東京都現代美術館のうさぎスマッシュ展に行きスプツニ子!なる人物を知ってとても作品が面白く、流れていた音楽が中毒性が高くハマってしまった。色々調べていたところ丁度情熱大陸でもとりあげられ、本も発売され、一躍時の人のようになってきているようだ。




「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」(うさぎスマッシュ展に展示中)



そこで何回かに分けてスプツニ子!についてブログを書いてみようと思う。まず初めは簡単なプロフィールと基本的なスタンス、考え方をとりあげる。次回以降作品などについて触れていく。


【プロフィール】
スプツニ子はサイボーグ/身体拡張/ジェンダー/アイデンティティー/ポップカルチャーなどのテーマを軸に音楽や映像、デバイスの制作をしている『サイボーグ乙女』です。CBCNETより)

・1985年7月1日東京に生まれる。父親は日本人、母親はイギリス人。両親とも数学者で、本人もインペリアル・カレッジ・ロンドンの数学科および情報工学科を卒業。

・2010年ロンドンRoyal College of ArtDesign Interactions学科修士課程修了。・2007年よりロンドンを中心に音楽やデバイス、映像制作などのアーチスト活動を行う。

・2009年ドラディカル・デザイン(=ドラえもん+ラディカルデザイン)の着想を得る。


・2010年6月末からロンドンRoyal College of Artでの卒業制作発表展「Show Two」で作品が展示される。発表映像作品のひとつ『生理マシーン、タカシの場合。』がヨーロッパなどで反響を呼んだ。(ユーザー投票により「YouTube Video Awards Japan 2010」 の「テクノロジー・乗り物」部門を受賞)


・2011年7月からのニューヨーク近代美術館(MOMA)での企画展「Talk to me」に出展。

・2013年秋よりMITメディアラボの助教に就任予定。

wikipediaより抜粋)




ハーフで高校は日本のアメリカンスクール、大学はイギリス学士課程・修士課程共にイギリスで過ごす。数学者の両親に育てられて、幼き頃から数学をずっと勉強してきた理系女子であり全く大衆側の人間ではない。様々な点でマイノリティ側に属しているからこそ、鋭く独自の視点で社会を批評する目が培われたのではないか。(イギリスのカルチャーも影響しているだろう)



【スタンス】
スプツニ子!がしたいことは人々の常識を崩すこと。そのために、枠に囚われること無く様々な領域を縦横無尽に駆け巡り、社会の現実的な現象・課題を科学的な観点を含めて入念にリサーチして、把握・再検討する。そのプロセスによって見えてきた新しい観点を一つのコンセプトにまとめあげ、それを一人ではなくチームを率いることで、最も人々の議論を巻き起こせるような大衆に向けたポップ・アートという形で作品を完成させる。あくまで人々の常識を崩すことが最優先であり、自分の考えや「正解」は提示せず、人々が自分自身で考えるきっかけを作る。


このスタンスは下記のようなインタビューから見て取れる



”根底にあるのは常識を崩したいというパンク精神です。常識を崩すというと、奇をてらうことだと勘違いしている人もいるけれど、それは違うと思っています。人が本当にびっくりするのは、常識や現実からほんの少しずれたことが起きた時。常識や現実からかけ離れてしまうと、理解や共感ができなくなってしまうんです。”



”だから、作品を作るときには科学的なリサーチを入念に行い、そこから「これは本当なのかな」と批判的に考えて現状を少しずらすというアプローチを取ることが多いですね。アートに限らずどんな分野でも、新しい発見というのはゼロからは生まれません。すでにあるルールをきちんと見つめ直し、それが本当に正しいのかを疑ってみてやっと次の新しいものが見えてくると思っています。”




”今、私が興味を持っているのはみんなの既成概念を変えるきっかけを作ること。地域格差だったり、ジェンダーの問題だったり、常に社会のバグみたいなものを掘り起こして「これ見なよ」と突きつけるような非常に厄介な人でありたいなと。”

リクナビ就職ジャーナルより)





【考え方】
スプツニ子!の生み出した考えにドラディカルデザインがある。上記スタンスと重複する部分も多いが、スプツニ子!が考えだした、彼女の考え方を端的に表す概念なので紹介しておく。


ドラディカル・デザインとは「ドラえもん」 と「 ラディカル・デザイン」を組み合わせて作った造語である。


彼女によると「ドラえもん」はその秘密道具から生まれるドタバタ劇を通して、毎週テクノロジーや社会通念、環境問題についてわたし達を考えさせる。それは下記3つの要素を持つクリティカルデザインに、プロダクト周りの世界観、キャラクターや物語を付加したラディカルデザインとそっくりであるとのこと。


 


<クリティカルデザイン>


1.あるプロダクトを提案/デザインし
2.その使い道を、見る側に考えさせる事によって
3.私達の持つ価値観や道徳、行動、社会について振り返えさせる



そして、スプツニ子!はドラえもんが結末を用意せずに、オープンエンドにして人々が議論したり自分自身で考えられるようになったほうが面白いと考えており、彼女のドラディカルデザインには起承転結の「結」はない。


スプツニ子!によるとこのドラディカルなアプローチを<生理マシーン、タカシの場合>では試したとのことである。(ということはこの作品以外はドラディカルではないのか?)



少し長くなったが、以上がスプツニ子!の紹介である。次回以降は彼女の作品について書いていく。

日本人はなぜ存在するか【書評】

與那覇潤の日本人はなぜ存在するかを読みました。


【目的】
グローバル時代に求められているのは「ハイコンテクスト」なものを「ローコンテクスト」なものに翻訳する力である。本書では「日本」という極めて「ハイコンテクスト」な社会に生きている我々が自明視している「日本人」について、様々な学問的方法論を用いながら、その「ハイコンテクスト」性を露わにしつつ「日本人」のローコンテクスト化を図る。


【目次】
第1章 「日本人」は存在するか
第2章 「日本史」はなぜ間違えるか
第3章 「日本国籍」に根拠はあるか
第4章 「日本民族」とは誰のことか
第5章 「日本文化」は日本風か
第6章 「世界」は日本をどう見てきたか
第7章 「ジャパニメーション」は鳥獣戯画か
第8章 「物語」を信じられるか
第9章 「人間」の範囲はどこまでか
第10章 「正義」は定義できるか


【要約】
第一章
国籍・日本語能力・民族的血統・現居住地いずれの観点からも「日本人」は定義し得るため、一義的な定義は難しい。認識論的に考えれば、は初めから実体として存在する「日本人」を我々が認識しているのではなく、我々が「日本人」として認識したものが、日本人として出現しており、会話の文脈によってその定義が移り変わる再帰的なものである。そして、人間が相互作用しながら作り上げている社会はあらゆるものが再帰的に存在するという見方で見るのが社会学であり、社会学的立場からすると近代とは下記のように定義される。

「(前近代の文明では、再帰性は依然伝統の再解釈と明確化だけにほぼ限定されており・・・・)しかし近代の社会生活の有す再帰性は、社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる」(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』)

第二章
既に終わった過去たる歴史も我々は再帰的なものであり、歪みが発生しうる。それは我々は「物語」を作ることなく広大な歴史を理解するが、その「物語」を後の出来事を知っている「現在」から構築するからである。我々は後から構成した「物語」に都合の良い事実のみに着目したり、結末を知っているが故に「解釈」を加えてしまったりするのである。


第三章
国籍も人為的に作られたものであり、再帰的な存在である。国籍制度には「血統主義」と「生地主義」という2種類の考え方がある。日本では「血統」を重視する「伝統」があるという立場から「血統主義」を採用しているが、実際には「家制度」と「血統主義」の間で揺れ動いてきた。そもそも「血統」が指すものは社会や時代によって変わりうる上、「血のつながり」という考え自体が再帰的なものなのである。


第四章
民族という概念は、政治権力から疎外されたり、ある国家の中で自分たちはマイノリティ(数の多寡ではなく、政治的弱者)だと感じている人々が、自分たちのアイデンティティを表明して、異議申し立てをするための道具として始まった。国民と民族という別個のアイデンティティのユニットは「再帰性はふたつ組み合わせることで、ひとつのときよりも安定する」言葉のように組み合わさることで安定性を生み出した。しかし、憲法による法律のコントロールと比べて民族の概念によって国民国家を制御する仕組みは、最初から単一の回答が社会から要請されており、グレーゾーンが許容されないためにしばしば暴走を起こす。


第五章
文化は「その国に古くからずっとあって、いまも変わらない伝統的なもの」という印象があるが、この単語の初期の意味は「過程」であった。そして我々は文化に関して多くの誤解をしている。第一にそれは必ずしも「古くから変わらないもの」ではなく時代に応じてつねに変化してゆく。第二に、文化とは「国別」に分かれているとは限らず、むしろ国境を越えて共有される。第三に「政治とは違って、中立的で平和裏なもの」といったニュアンスがあるが、文化を享受するという体験自体が実際には政治的営みである。日本文化も戦前は「海外から新しいものを取り入れて進化するのが当たり前だ」と考えられていたが、その発想が戦争敗北により大東亜共栄圏の夢とともに挫折すると、反省として「各国の文化は固有であり、安易に変えられないし、混ぜあわせられない」と考えられるようになったのかもしれない。このように文化も再帰的なものである。今日行われている「文化」の認定も「無標」に対して「有標」になる、つまりスタンダートではない特殊なものと認められているという観点から考え直すと一概に喜べるものではないと分かる。


第六章
西洋・白人・男性の文化が有票化されず、無標のスタンダードとみなされる近代世界では日本人に対する認識も、「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な(中心の側に都合の良い)現実世界の構築によって作られたものかもしれない。日本人論は世界において有標化された日本が、特殊性を合理化、ないしはその特殊性を乗り越えて「普通」と認めてもらうためのツールであった。「世界」をどこかよそから自国に迫ってくる存在として他律的に捉えてその評価を気にするという思考様式自体が、周縁化された地域の特徴なのである。


第七章
「ジャパニメーション」の受け入れられ方の違いは各国の再帰的な価値観に依るものである。どのような表現が自然に行け入れられるかは各国の時代背景に依るものであり、安易に「伝統」や西洋の影響に結びつけてはならない。もっと相対化された「新歴史主義」「ポストコロニアリズム」的な視点からの検証が必要なのである。これらの「周辺」の地域から考える考え方を導入した場合、「ジャパニメーション」も実は近代西洋以上に普遍的な文化を発信する「中心」でありうるかもしれないのである。


第八章
「日本」や「日本人」は再帰的なものであり、一義的な定義ができない不安定なものであったが消滅してはこなかった。それは我々が「物語」を通して、「日本」という観点からものごとを捉え、認識し続けているからである。しかし、1970年代後半頃から物語の再帰性が露わになり、世界は「大きな物語の終焉」を迎え、社会に共同体性を創りだすような力が、物語から失われていった。


第九章
「大きな物語の終焉」に対して我々は国民国家という枠組みを放棄して「人類共同体」として生きればよいかと言えばそうではない。物語の再帰性は価値を否定しない上「人類」もまた再帰的なものに過ぎないからである。我々は近代になって進歩したつもりでいるが、結局再帰性のループからは逃れられていない。「この世界が再帰的であること」の認知は伝統から我々を開放してくれる喜びに満ちた体験であったが、ポスト近代の今我々は「全てが再帰的であり、自分の責任であること」を知って苦しんでいる。自己決定的な再帰性故に代替選択肢は数多く存在し、それに対して我々は立ち止まざるを得なくなっているのである。


第十章
我々は意識しているかしていないかに関わらず、ものごとの決定基準たる「正義」を決定している。しかし、「功利主義」も「自己決定」もあらゆる「正義」は再帰的なものにすぎないため、どんなに理詰めをしても、どこかで我々の直感に反する部分が生ずる。この点において東洋思想の素朴な感情や反応を出発点とする思考様式が魅力的に映るが、両者に長短があるわけで一方への傾斜が良い結果をもたらすわけではない。我々はそのような再帰性の不適合があるからこそ常に今の秩序を相対化し、自分たちの「正義」を優れたものにしていけるのである。そして、周囲の環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーだけで通用する現実に作り上げることが人間の本質であり、人間のみじめさと、偉大さと、せつなさと、すばらしさと、そのすべてがある。


【感想】
各学問の方法論について分かりやすく知れたのは勿論、「再帰性」という言葉を知れたのは良かった。家族との血のつながりというものも再帰的なものであるということは衝撃的であり、自分が普段あらゆるものを再帰的に定義していることが良く分かった。本書の最後にもあるように「大きな物語が終焉」する、ものごとがより相対化した今において、その選択肢の多さや再帰性に絶望するわけではなくて、その自由度や余地をポジティブでより良い世界に生きていきたいと思った。常日頃から思っていた「あらゆるものが相対化する中でも、日和見主義に陥らずに色々な選択肢を検討した上で自分の信念を持って生きていきたい」ということは、自らの意見の再帰性を認識した上でも、力強くそれを再構成し同じ社会のメンバーで(少なくとも自分と同じ意見を持っている人と)通用する現実に作り上げていくことなんだと思った。

靖国問題【論点整理】

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子宮に沈める【映画】

新宿にあるK's cinemaにて「子宮に沈める」を観てきました。

大阪二児遺棄事件を元にした映画で、題名は「母親たちが社会が期待する『母性』によって苦しめられている」という意味から来ているそうです。今までで一番衝撃を受けた映画になりました。終わった後の映画館には物音一つ立ちませんでした。

【概要】

優しそうな母親が幼い姉と弟の2人を優しく毎日世話するシーンから始まる。笑顔で愛情たっぷりに子供の相手をする母親であったが、夫は家を空けてばかりで帰って来なかった。母親は毎日夜遅くまで資格勉強や子供のマフラーを編んだりしながら、頑張っていたが、ある日久しぶりに帰宅した愛する夫は家を出て行ってしまった。


それからは生きていくために仕事をしながら、子育てもしなければならなくなった。仕事や子育ては大変で思うように行かないことも続き、ストレス解消に酒、タバコ、男に走るようになり、生活リズムも乱れていく。浮気相手にも大切にされるわけでもなく辛く孤独な日々が続くと、母親の中で何かが切れてしまい、子供を部屋に閉じ込めたまま自宅に帰るのをやめてしまった。


子供達はそんなこと露知らず母親が帰ってくることを待ちながら生活する。姉は弟のためにミルクを作ったり、あやしてあげたりしながら、必死に生きるが何日も過ぎると食糧は底をついてしまう。数日後弟は死んでしまうが、何が起きたかよくわからない姉は、暗闇の中無邪気に弟の誕生日をお祝いする。


それから数日たっても一向に母親は帰宅しない。弟の死体にウジやハエが湧く中、姉はマヨネーズや粘土の他、ゴミ山からも食べられるものは何でも食べて何とか食い凌いでいた。外にもトイレにも行けず、孤独な日々を送る。


ある日遂に母親が帰ってきた。しかし母親は無邪気に喜ぶ姉を尻目に、淡々と死んだ目をして、家のゴミや子供の死体を処理していく。そして最後には生きている姉を殺してしまう。


全ての処理を終えた母親であったが、子供のために作ったマフラーだけは捨てられなかった。2人の子供だけでなく、お腹の第三子も殺してしまった後、母親は後悔からか絶望からか号泣する。


最後に母親の手編みのマフラーがかけられた、子供2人の遺体が並んだシーンが映されて映画は終了する。

【感想】

観ている最中から、辛くて辛くて逃げ出したくなるような映画だった。あんなに良い母親だったのに誰にも支えてもらえない状況に追い込まれて、最後には糸が切れてしまった。


お弁当、お出かけに、夜泣きなど子育てはとてつもなく大変だということがよくわかった、そしてそれを一人で抱え込むことなどは絶対にできない。子育てのストレスだけでも耐え難いものがあるのに、全てが上手く行かなかった母親は人がすっかり変わってしまった。


最後のシーンでは愛情がまだ残っていた母親の後悔の叫びが痛いほど伝わってきて、誰が悪かったのか、どうしてこうなってしまったのか自分でもよく分からずひたすら辛かった。


また、置いて行かれた子供の描写も辛かった。弟思いの健気な姉がトイレにも行けない状況の中、飢えを凌ぐためにマヨネーズや粘土や腐った食べ物を口にしていたのは壮絶だった。弟の死体にはウジやハエが湧き、腐臭も酷かった。子供を放置して死なせた事件の裏にはこういった悲惨な状況があるということなのだろう。


あとは個人的に母親が家で男とセックスをしたのを子供が見ていて真似をするシーンに心が痛んだ。いくら大丈夫だと思っても絶対に見せてはいけない部分なのだろう。仮に姉が生き延びてもその後のトラウマにつながることになっただろう。


夫の協力が無かったこと、別れてしまったことが主な原因だが子供に責任はない。ただ、母親だけが悪かったのかというと全くそんなことはない、母親のみを責めることなど一切できない。責任は夫にもあるが、子供のために好きでもない人とずっと一生いなければならないのかと言われると正直よく分からない。そもそも、夫婦のみに責任を押し付けて、そこに社会が関わろうとしない限り悲劇は繰り返すだろう。


結婚も出産も大いなる責任を伴う、自分だけでなく他の人生を預かるとてつもなく大きな決断だ。世の中の人が「結婚して子供産んで、幸せになりたい」と簡単に言っているほどそれらが甘くないことは自明だが、本当に大変で重要な意思決定だと心から思った。単なる離婚なら構わないが、子供を巻き込むようなことは本当にして欲しくない。皆にも人の命を預かる、人生を左右するような重い決断だってことを分かって欲しくなった。


ただ、こんなに大変だということがわかった上でも自分は結婚にも子供を持つことにも憧れがあるし、それらが自分が幸せになるための道だという「幻想」を抱いて生きたいと思っている。だからこそ、「幻想」を「現実」に変えるために、きちんと相手を選んだ上で努力するし、誠実でいるし、やれることはなんでもやろうと思った。誠実でいることは大変だけど、実は幸せにつながっていて、誠実だからこそ楽に生きられると信じているので。





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