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かぐや姫【映画】

かぐや姫の物語を観てきました。

あまり期待していなかったのですが、素晴らしい作品でした。大筋は竹取物語のままなのですが、各登場人物それぞれの個性が際立っており、ストーリーを豊かなものにしていました。ストーリーだけでなく、日本画の手法を用いて作られたアニメーションは簡素で美しく、観ているだけで楽しい心に残るものでした。

全体としては山でのびのびと自然に囲まれて育ったかぐや姫が、都で自己中心的な人々に囲まれて不自由な暮らしを送ることことで身体性を失い心を閉ざしてしまう。そして、地球に対して嫌気が差して月へ帰ることを望むが、いざ月へ帰る段になって自分が育った自然豊かな地球の良さを再確認する物語。

画的な特徴で気づいた/良かった点

・静止画が多い
・背景が白
・平面性と遠近法の両取り
・最低限の線で表現
・単純な線・黒一色・少ない画数による疾走感の表現が秀逸


物語で気がついた点

・全員ご都合主義だが適応能力が異常(かぐや姫の誕生、都への移動)
・男性は徹底して自己中心(捨丸もおくさんがいた)
・味方は女の童とおばあさん(しつけのお姉さんも悪い人ではない)
・2回の夢?、2回目はかぐや姫サイドから始まり捨丸で終わる
・じいさんは結局俗世にまみれた自己中心的人物
・かぐや姫は両親に怒ってはいない
・地球を思ったことが罪で、罰は地球に行くこと
・徐々に絶望していくもいざとなると地球が好き
・成長が止まる
・名付けのお祝いの時かぐや姫が絶望した理由は?
・5人の求婚にも傷つく
・帝で決着
・誰かの「もの」になりたくない、身体性を失わず自然と自然にいきいきと生きて行きたかった
・捨丸も好きだった
・最初は月の力をもっていた
・桜で赤ちゃんにぶつかって絶望したのは?
・月と都のアナロジー
・地球はけがれではない
・本当の理解者たる女の童
・小鳥とバッタを逃すのは自分との類比
・自然と生物との触れ合い、いきいき
・歌
・月の人はかぐや姫が高貴な生活をするところまで織り込んでいる
・月に帰るトリガーが帰りたくなることなので、地球を思うこと並びに身体性へのあこがれが罪で身体性を知った上でそれを取り上げられることが罰なのでは?


月の者達はかぐや姫に身体性を与えてから奪うところまで計画していたと思われるが(月で聞いたわらべ歌、地球の特徴、かぐや姫に与えた金品ことなどによる)、そうすると罰は「憧れた地球に絶望すること」だけではないことになる。地球を嫌いにさせるだけであれば、辛い暮らしや死別などを味合わせれば良いのではないか。月にない「穢れ」「タブー」に敢えて触れさせることに意味があったことになる。

整合的に考えるためには

①地球を謳歌した後で一瞬嫌いになるが、その良さを再認識させた上で嫌々月に帰すという罰
②かぐや姫に対する罰は不徹底・失敗であった(地球を嫌いにさせきれなかった)

のどちらかだと考えられる。

①は結局地球の良さを月の者が認める形になる、地球の良さの再認識はかぐや姫に依るので考えにくい。②は「穢れた地球」に対してかぐや姫が「穢れてなんかいない」と答えたシーンからも妥当性がある。


そうすると物語は

・月という理想郷にいながら地球に憧れたかぐや姫を罰として地球に送り込んだ
・かぐや姫は身体性を楽しむがそれを奪われ、自己中心的な地球人に囲まれて育つ
・かぐや姫は楽しいことが一つもなくなり地球に絶望する
・罰がうまくいったので地球に月から迎えに行く
・しかし地球の自然に囲まれた身体性のある生活の魅力は高くかぐや姫は地球に絶望してもなお魅力を感じ続ける
・月の力には抗えず帰還


という物語になり主題は「身体性」が中心テーマなのだろう。やや浅い読みな気もするが、竹取物語のストーリーを変えること無く脚色した部分は全てここに集約されている。

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子宮に沈める【映画】

新宿にあるK's cinemaにて「子宮に沈める」を観てきました。

大阪二児遺棄事件を元にした映画で、題名は「母親たちが社会が期待する『母性』によって苦しめられている」という意味から来ているそうです。今までで一番衝撃を受けた映画になりました。終わった後の映画館には物音一つ立ちませんでした。

【概要】

優しそうな母親が幼い姉と弟の2人を優しく毎日世話するシーンから始まる。笑顔で愛情たっぷりに子供の相手をする母親であったが、夫は家を空けてばかりで帰って来なかった。母親は毎日夜遅くまで資格勉強や子供のマフラーを編んだりしながら、頑張っていたが、ある日久しぶりに帰宅した愛する夫は家を出て行ってしまった。


それからは生きていくために仕事をしながら、子育てもしなければならなくなった。仕事や子育ては大変で思うように行かないことも続き、ストレス解消に酒、タバコ、男に走るようになり、生活リズムも乱れていく。浮気相手にも大切にされるわけでもなく辛く孤独な日々が続くと、母親の中で何かが切れてしまい、子供を部屋に閉じ込めたまま自宅に帰るのをやめてしまった。


子供達はそんなこと露知らず母親が帰ってくることを待ちながら生活する。姉は弟のためにミルクを作ったり、あやしてあげたりしながら、必死に生きるが何日も過ぎると食糧は底をついてしまう。数日後弟は死んでしまうが、何が起きたかよくわからない姉は、暗闇の中無邪気に弟の誕生日をお祝いする。


それから数日たっても一向に母親は帰宅しない。弟の死体にウジやハエが湧く中、姉はマヨネーズや粘土の他、ゴミ山からも食べられるものは何でも食べて何とか食い凌いでいた。外にもトイレにも行けず、孤独な日々を送る。


ある日遂に母親が帰ってきた。しかし母親は無邪気に喜ぶ姉を尻目に、淡々と死んだ目をして、家のゴミや子供の死体を処理していく。そして最後には生きている姉を殺してしまう。


全ての処理を終えた母親であったが、子供のために作ったマフラーだけは捨てられなかった。2人の子供だけでなく、お腹の第三子も殺してしまった後、母親は後悔からか絶望からか号泣する。


最後に母親の手編みのマフラーがかけられた、子供2人の遺体が並んだシーンが映されて映画は終了する。

【感想】

観ている最中から、辛くて辛くて逃げ出したくなるような映画だった。あんなに良い母親だったのに誰にも支えてもらえない状況に追い込まれて、最後には糸が切れてしまった。


お弁当、お出かけに、夜泣きなど子育てはとてつもなく大変だということがよくわかった、そしてそれを一人で抱え込むことなどは絶対にできない。子育てのストレスだけでも耐え難いものがあるのに、全てが上手く行かなかった母親は人がすっかり変わってしまった。


最後のシーンでは愛情がまだ残っていた母親の後悔の叫びが痛いほど伝わってきて、誰が悪かったのか、どうしてこうなってしまったのか自分でもよく分からずひたすら辛かった。


また、置いて行かれた子供の描写も辛かった。弟思いの健気な姉がトイレにも行けない状況の中、飢えを凌ぐためにマヨネーズや粘土や腐った食べ物を口にしていたのは壮絶だった。弟の死体にはウジやハエが湧き、腐臭も酷かった。子供を放置して死なせた事件の裏にはこういった悲惨な状況があるということなのだろう。


あとは個人的に母親が家で男とセックスをしたのを子供が見ていて真似をするシーンに心が痛んだ。いくら大丈夫だと思っても絶対に見せてはいけない部分なのだろう。仮に姉が生き延びてもその後のトラウマにつながることになっただろう。


夫の協力が無かったこと、別れてしまったことが主な原因だが子供に責任はない。ただ、母親だけが悪かったのかというと全くそんなことはない、母親のみを責めることなど一切できない。責任は夫にもあるが、子供のために好きでもない人とずっと一生いなければならないのかと言われると正直よく分からない。そもそも、夫婦のみに責任を押し付けて、そこに社会が関わろうとしない限り悲劇は繰り返すだろう。


結婚も出産も大いなる責任を伴う、自分だけでなく他の人生を預かるとてつもなく大きな決断だ。世の中の人が「結婚して子供産んで、幸せになりたい」と簡単に言っているほどそれらが甘くないことは自明だが、本当に大変で重要な意思決定だと心から思った。単なる離婚なら構わないが、子供を巻き込むようなことは本当にして欲しくない。皆にも人の命を預かる、人生を左右するような重い決断だってことを分かって欲しくなった。


ただ、こんなに大変だということがわかった上でも自分は結婚にも子供を持つことにも憧れがあるし、それらが自分が幸せになるための道だという「幻想」を抱いて生きたいと思っている。だからこそ、「幻想」を「現実」に変えるために、きちんと相手を選んだ上で努力するし、誠実でいるし、やれることはなんでもやろうと思った。誠実でいることは大変だけど、実は幸せにつながっていて、誠実だからこそ楽に生きられると信じているので。





標的の村【映画】

ポレポレ東中野にて「標的の村」という沖縄の基地問題を扱った映画を見てきました。




【概要】

ある日沖縄県国頭郡東村高江に住んでいた一家に、高江を取り囲むように米軍のヘリパッドが6つ建設されるというニュースが届く。以前より周辺には米軍の演習場があったが、今回は普天間や北部訓練場の返還と引き換えにSACO合意に基いて建設が開始されることとなった。


「まるで自分たちは標的のようだ」「米軍はヘリからわざとこっちに照準を合わせてくる」と憤慨する周辺住民。ベトナム戦当時、沖縄の山岳地帯に襲撃訓練用の「ベトナム村」に近くに住む高江の住民たちが連行され、ベトナム人役をやらせられていた土地の記憶が蘇る。枯葉剤など危険な薬物が使われていたとの話も出てくる。


そこで、高江の住民は自らの生活が脅かされないよう、座り込みによって建設作業を妨害した。しかし、ある日15名が「通行妨害」の名の下に国に訴えられる。そこには座り込みに参加してすらいない、当時7才の小学生の女の子の名前も入っていた。公的機関の弱者に対する威圧・嫌がらせのための裁判、通称SLAPP裁判が行われたのである。


その後も裁判を闘いながら、皆で反対運動を続けるものの、クレーンなどを使い妨害を避けながらヘリパッド建設は進められてしまう。そして国からの説明は一切なかったが、米軍の資料からそのヘリパッドがオスプレイの離着陸にも使われることを住民は知る。このことに怒りを爆発させた住民たちはオスプレイの普天間基地配備前夜、台風にも関わらず前代未聞の普天間基地ゲート封鎖を決行する。


沖縄の警察と住民の間に激しい抗争が起き、一時米軍とも一触即発の状態も迎える。沖縄人同士で戦い合いをしなければならないことにお互い葛藤しながら、何年もずっと何も変えられないことに苛立ちを覚えながら、戦う住民たちの姿がそこにはあった。

【感想】

抗争シーンの圧倒的な描写に驚きました。心的葛藤がありながら、警察も住民も激しく戦っている様子にはひどく心をうたれました。また、子供の頃からこの問題に関わった子は、活動家のようになってしまうだろうし政府を信頼することは絶対にないのだろうと考えると、何か寂しく少しでも変えることはできないだろうかととても思います。

この映画を含めた沖縄基地問題から左翼活動家の人達の思惑やイデオロギーなどをどれだけ割り引くかは難しい所ですが、純粋に住民として自分が生まれ育った故郷に安心して住みたいと思っている人達がいるのも事実であり、沖縄では県知事や市長なども基地反対運動に身を投じていることを鑑みればこの問題が「あいつらはサヨク」という意味不明の言葉では片付けられないことが容易にわかると思います。地政学的な重要性、日本政府ですらアメリカ軍の機密には触れられないこと、本土の国民の基地問題に対する意識の低さが相まって問題解決を阻害しているわけですが、必ず解決されるべき、重要度の高い問題であるので皆にも知って深く考えてほしいと思います。


風立ちぬ【映画】




風立ちぬを見て来ました。ジブリ映画は「千と千尋の神隠し」と「もののけ姫」くらいしか見たことがないので詳しくはありません。ただ、今回は周りの方の評判が良かったのと宮崎駿が歴史観を色濃く描いていること、零戦に関係することということで見に行くことにしました。

【あらすじ】

まず主人公堀越二郎の幼少期から始まり、夢でイタリアの飛行機設計家カプローニ氏とあって飛行機の魅力を伝えられる。そして自分は飛行機設計家として生きることに決める。


二郎は成長し、東京の学校に通って(一高と東大)飛行機設計の勉強をするようになる。真面目に学ぶ日々が続くが、ある日関東大震災に見舞われる。直前に同じ汽車に乗っていた菜穂子に風で飛んでいった帽子を取ってもらったこともあり、菜穂子とそのをおんぶして家まで送って行ってあげる。


二郎はその後一度家を見に行くも焼けてしまって跡形もなくなっていた。ただ、菜穂子とお絹は恩を忘れておらず、一度学校にお礼の品を届ける。しかし、その後会うこともなく主人公は就職して名古屋に行くことに。


名古屋の三菱重工で設計家として、学校時代からの友人本庄と共に才覚を遺憾なく発揮する。上司の推薦もあって本庄とともにドイツに技術見学のために視察に行く。意地の悪いドイツ人による望外を受けるも、ユンカース博士の取り計らいで試乗までできることに。ドイツの技術水準の高さと日本の後進性をまじまじと見せつけられる。


帰国してからは二郎は上司の期待の下、設計主任を任されることになる。設計した飛行機は空をとぶことに成功するもまだまだ二郎の希望のものとは程遠いものであった。テスト飛行後二郎は避暑地軽井沢に行き羽根を伸ばすことに。そこでドイツ人カストルプと仲良くなり、ユンカース博士が危ない状態であることを知る。また、道端で助けた女性が実は震災の時に助けた菜穂子であることが分かり、一緒に遊ぶうちに恋に落ちる。結核を患っていることを菜穂子から告白されるも、二郎は婚約を申し出て付き合うことに。


別々に暮らすことになったが、仕事に戻った二郎は再び一生懸命働き始める。公安に追われながらも頑張って働くが、ある日電報で菜穂子が喀血したことを知る。一瞬だけ仕事を抜け、菜穂子のお見舞いに行くことに。菜穂子は病気を高原の療養所で治すことを決意する。


二郎は新型戦闘機開発のために日々尽力をしていた。一方で菜穂子とは文通でやり取りしていたが、菜穂子は寂しさからか、自らが長くないことを悟ってか療養所から抜け出して二郎の元へやってきた。結婚して一緒に暮らすことをお互いに決意するも、二郎は戦闘機の開発を最優先にしながら生きる。菜穂子はそばにいられるだけで幸せそうにしており、文句を一切言わずに励まし続ける。


遂に新型戦闘機は完成する。菜穂子にそれを伝え、泊まりこみでテスト飛行があることを伝える。菜穂子は成功を願ってくれるも、二郎が出て行った後に一人でこっそり療養所へ帰ってしまう。


テスト飛行は大成功に終わり零戦は完成する。二郎の追い求めていた夢は叶った。しかし、戦争が終わった後、夢の中で二郎はカプローニに「夢ではなく地獄かと思った」「出撃した飛行機は一機も戻って来なかった」と苦悩している様子を見せる。カプローニは最後に、ずっと二郎を待っていた人がいると言い菜穂子を紹介する。「あなた…生きて…」微笑む菜穂子。その時、風が立った。菜穂子はまるで風に溶けるように消えさっていった…

【気になったところ】


かつて、日本で戦争があった

対象から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。

そして、日本は戦争へと突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?

イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。

この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描くー。

堀越二郎と堀辰雄に
敬意を込めて。

生きねば。
→映画紹介に書いてあるコピー。宮崎駿が伝えたかったのはこの時代を愚直に一生懸命生きた堀越二郎の姿だったということだろうか。また、わざわざ道行く子に食べ物をあげるシーンや取り付け騒ぎを描いたのは時代の大変さを描いたということなのだろうか。



「仕事に打ち込むために、世帯を持つのも矛盾だ。日本が貧乏なのに、高額な飛行機を作ろうとしていること、それによって俺たちが飛行機を作れることも矛盾だ。だが、俺はそのチャンスを無駄にしない。」
→映画で本庄で言う言葉。多くの矛盾を抱えながら生きている様子を現している。矛盾を持ちながらそれでも「生きる」強さを見せているのではないか。本庄も二郎も一貫して「美しさ」のためだけに飛行機を作っている。
「日本はチャイナと戦争したり、満州国を作ったり、国際連盟を脱退したり、すべて忘れる。破裂する。ドイツも破裂する」
→ドイツ人カストルプが軽井沢で主人公に言った言葉。宮崎駿が当時と今の国への不信感を思い切りあらわにしている部分ではないか。

【感想】

久しぶりのジブリ映画だったが、とても面白かった。またすぐに見たくなる映画である。今回は大人のある程度教養のある人に向けた(もしくは宮崎駿が自分自身のために作った)映画であり、ある程度知識がないと楽しめない映画であるとも感じた。(関東大震災、取り付け騒ぎ、ドイツとの関係、第二次大戦についてなど)時代の厳しさを描きつつも、二郎が物質的にも精神的にもその苦難を受けること無く夢を追いかけているのが印象的だった。しかし、それに対する解釈ができない。多義的な解釈が可能なものに対して立ちすくんでしまう自分の能力の無さに悔しさを覚える。


面白かった点であるが、まずラブロマンスとして楽しめた。菜穂子と二郎のような純粋な儚くも切ない恋は、羨ましくもあり感動を誘う。仕事、自分の夢のためにエゴイスティックだと分かりつつも、今を大切にするためにも菜穂子と一緒にいる決意をした二郎。寂しく先が長くないことを悟っていたからこそ、二郎と一緒にいたいと思った菜穂子。どちらの思いも純粋で微笑ましく、お互い寂しいながらも幸せに生きられたことに感動した。

しかし、菜穂子との時間を犠牲にし、自分の人生全てを使って成し遂げた二郎の夢はなんだったんだろうか。映画の最後に二郎が自分で苦悩しているように、二郎が作った夢の「零戦」は特攻を生みたくさんの命を奪い、日本は敗戦に終わった。もしかしたらその夢は無いほうがよかったのかもしれないのだ。この時代だったからこそ、このような夢を追いかけることが悲しい結末を生んだと宮崎駿は言いたかったのだろうか。厳しい時代を愚直に生きる青年を描きながらも、その愚直さは結局悲劇を招いただけだった、それは時代の責任だと言いたいのだろうか。でも、それは違う気がする。夢は夢なのだきっと。カプローニが最後に零戦を見て、「美しい、いい仕事だ」と言ったように、震災・貧困・病気・戦争という厳しい時代であったとしても、夢を愚直に持って生きる、それがどのような結果になってもそれを受け止めて、また愚直に生きるという当時の人間の強さを描きたかったのではないだろうか。






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