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現代アートとは何か【書評】

菅原教夫氏著作の『現代アートとは何か』についての書評。(読んだのは新書ではなく単行本)


【目的】
現代アートとは何かという問いに答える。現代アートで頻用されるインスタレーション、現代絵画の状況、現代思想との交わりの3点から説明を試みる。

<それぞれのキーワード>

・美術館からの飛び出し、プレモダン、新しいあり方(ツーウェイ・仮想現実)
・純化・還元とその限界を越えて
・思想との交わり、アートの拡張・概念化、場の拡張
【要約】
第一章
アートの現在
制作の場所や歴史や社会に関わる作品もある一方で、平凡な日常から隔絶された個別のゾーンを画そうとする作品にも出会う。
インスタレーションには美術館に収蔵されて良いものと、そうでないものがある。この問題を考える上で重要なのが、インスタレーションと美術館の関係。
「このように、ある特定の場所に置くことを前提に制作が進められた彫刻が、そのスペースから切り離されて展示されるようになったのは、近代の美術館の制度に従ったからだった。近代の美術館のスペースはホワイトキューブと形容されるニュートラルな性格を持っている。そこは空間の個性を排除することによって、作品の自立性を際立たせる作りなのであり、見るものの関心を作品の造形性に集中させるためにある。もし作品が場所の固有性から分離できるものであれば、それがどこに置かれてようとその意味は変わらないということになって、作品は確かに自立性を獲得する。この自立性こそはモダニズムの美術の特徴なのであり、作品のコスモポリタン的な性格を形作ってきたのだった。というのも消費社会はあらゆるものを商品化せずにおかないが、作品の移動可能性が作品の商品性を保証したからである。~~作品が特定の場所から切り離されたことが芸術の商品化を進めてきた、と言うことができる」
元来特定の場所に置くことが前提に制作されていた作品が、美術館により特定の場所から離された作品は本来持っていた作品の意味の一部を失うことに。
彫刻が抱えていた美術館の空間に対する不満は、60年代の美術の転換期において美術館を飛び出す制作に結実する。60年代のドラスティックな美術の転換とは、それまでの「絵画=彫刻=美術」という図式からの離脱を意味している。
美術館によって保証されてきた、ルネサンス以来の真実や美や古典といった伝統の価値にたんに寄りかかっている絵画や彫刻が美術のトップであるという構造が糾弾された。(機能を奪われた人工物などにも関心が向くように)
二十世紀のモダニズムは他人の事や社会を考えず複雑な現実から逃れて作品の中に人に侵されない聖域を築くことが課題であり、エリート主義を招いた。その反動で社会性を持った作品が登場。
モダニズムの行き詰まりは海・光・森など近代以前のプレモダンへの視点を提供。
新しいメディア(映像など)による可能性。機械と対話するツーウェイのシステムや、実際の揺れを伴って異次元の空間を旅するといった仮想現実の空間は、やはりこれまでの人間像を徐々に変えていくだろうという点で、ポスト・ヒューマンの美術への導入をなすものに相違いない。
第二章
絵画の行方
マティスの原色で描くフォービズムとブラックと共にピカソが気づいたキュビズムが20世紀の絵画に革命を起こした。
そもそも西洋の近代美術の歴史を振り返ってみると、非西洋の美術からの摂取によって、近代の美術を作ってきたと言える面がある。西洋のモダニズムの美術はマネから始まると一般的に言われるが、マネ以降の十九世紀後半の西洋美術は、日本の浮世絵から大きな影響を受けた。~~同じ事がピカソのアビニョンの娘たちの場合には黒人彫刻からの影響という点において見られる。キュビズムの革命もやはり非西洋の美術との接触によってもたらされたのである。
「デフォルメ」とう概念は写実性が写真の影響で絵画から奪われたから。黒人彫刻はもともと写実性ではなく乳房や性器の誇張があった。(西洋との違い)
このようにアートは西洋と黒人社会で違うがそもそもなにか?
アメリカの批評家ダントによると「アートとは思想や内容を体現し、ある意味を表すものである」
西洋近代美術では用途を持つものは一般にアートとは考えられないのだが、この籠・壷をそれぞれ大切にする部族はその認識を裏切っていてアートの定義をその意味で拡張する。
20世紀の美術ではデュシャンやバーンズなどにより用途から切り離されたものがアートだという考えに挑戦が行われた。
マティスを評価したアメリカのフォーマリズム批評家グリーンバーグによるとアメリカは西洋と違い美術の伝統がなかったためたえず新しさを求めてやまない戦後の前衛美術の中心になった。
実際戦後の美術の最高のものはアメリカから生まれた。戦後のアメリカ美術はヨーロッパの前衛美術の正統を刷新して継承するものだった。
グリーンバーグによるとアバンギャルドは

「西洋では十九世の半ばに、芸術がデカダンに侵されているという危機感があった。アバンギャルドとはボードレールやフルベールらがその危機を克服するために、過去を模倣することなく西洋の宝物を生み出す方法を模索した運動だった。つまり確信を通じてティツィアーノやシェークスピアに匹敵する作品を創りだそうとしたのである。アヴァンギャルドはただたんに新しければいいというものではない。1850年代つまりマネの時代から美術の原則となってきたことは、質的には劣っている作品が前面に出て、最高のものは二十年間は埋もれる運命にあり続けたことである」
(ポップ・アートやミニマルアートやコンセプチュアルアートへの批判は、作品の質が悪いかマイナーで退屈なのにもかかわらず、人々がこの作品はどのような意味なのだろうと不思議に思うことによって美術たり得ていたに過ぎないから)
過去を模倣すること無く西洋の宝物を生み出す方法」はメディアに固有の要素をはっきりさせ、それに耐えざる事故批判を加えていくこと。絵の固有の要素とは大きさが限定された平らな面であること。
→まず具象絵画が切り捨てられる抽象へ、平面に三次元を描こうとするのは絵画の平面性に矛盾、物語を描くことも文学にも備わっております絵画固有ではな
「芸術における純粋性とは、その芸術のメディウム(媒体)の限界を受け入れること、それを喜んで受け入れることにある。~~それぞれの芸術が独自であり、漠然としてそれ自体であるのは、そのメディウムによってなのである」(美術固有のメディウムとは絵画における絵の具やキャンバスのこと、絵に書かれた主題は重要ではない。絵が自然に従属してはならず、メディウムの方が圧倒しなければならない。)
→平面性を意識し、不純物を極限まで除いたミニマルペインティング・ポストペンタリーなどが生まれる
行き詰まりに対しては絵を国外の視点やほかの芸術の視点も取り入れて広く捉え直そうとする運動などが起きる
※グリーンバーグはミニマルペインティングがモダニズムの終着点と考えていたわけではない
第三章
アートと現代思想
ミニマル・アートに行き着いたモダニズムの美術は、そこからの発展が難しくなった。「純化」「還元」を規範にするモダニズムの枠組みではそれ以上進んだ新しい美術は望めなくなったからである。
そこでポストモダンという既存のイメージを使って、つまり引用という方法によって、何かを語りかけようという美術が生まれた。
ポストモダンは主題が画一的ではないため一般化が難しく、現代の文化に批判・批評するが積極的につくろうという価値も明らかではない。
ポストモダンの思想的準備は、構造主義・ポスト構造主義へとつながる価値の相対化。それにより美術においてもモダニズムの権威に反抗が加えられた。ポストモダンの美術は作品の権威の根底にある構造を探る動きなのである
but非西洋の文化をその原形によってありのままに見ようとする態度も、結局は西洋内部の反省ないしは不安に基づく思考の組み換えから来ている
→ポストモダンは西洋の論理、日本ではやらず
ex.レヴィ=ストロースが熱帯の民族文化、野生の思考に熱狂しながら、その分析において、西洋の合理的な知性を介していたこととどこかつながっている(自己を相対化し相手の価値を受け入れ相手の価値判断も尊重したが分析は西洋的)
ポストモダンの美術が示したのは、その概念性。それは個々の作品のスタイル、視覚性を問うよりも、文化に対する考え方、態度を重視しており、それが興味の対象となる。
この制作が概念的だからこそ、作家たちの発言はそこで重要な作品の構成要素になっている。モダニズムの美術においては、作品が全てであり、作家たちの発言はそれを理解する上での補助的なものであったのと異なる。
こうなるとアートの意味も変わらざるを得ない。19世紀に美術館によって社会のエリートから大衆へアートが開放された。それは当初から妥協的な性格を持っていたのは事実だが市民にそこに展示されている絵画と彫刻がアートだという認識を広めた。それに対して60年代以降美術館を飛び出す従来の美術の枠組みを壊す作品が誕生。アートの概念が拡張。
アートは社会や歴史に応じて対称が変わるため定義が難しいが、コスースが唱えたように美術作品とはそれ自体がアートの定義であると言える。アートは従来の定義からはみだす価値をそこに付け加えることが出来てこそアートである。よってアートは従来のアートが持っていなかった価値観をたえずそこに導入していくことになる。そこではグリーンバーグが批判する「アート以外の価値観」がむしろ積極的に迎え入れられる。したがって美術を理解する方法もまた、従来の美術のやり方にとどまるものではない。様々な知見を総動員して、その解釈を実りあるものにするのが、新しいアートの本意いn沿うものである。実際、六十年代以降の美術を解釈する有効な武器として、人々は科学や哲学といったさまざまな分野の成果を援用してきた。
 
・現象学とミニマル・アート
それらは作品の内部には意味を見つけられない。一切のものを排除した絶対の世界で作品の置かれた空間、見る人、当の作品が関係する外部の場において意味が与えられる。
・ウィトゲンシュタインとポップ・アート
難解な言葉ではなく日常の言語、外的言語で語る必要性が与えられた。

※多分モダニズムの終着点たるミニマル・アートと現象学的解釈をされるポストモダニズムのミニマルアートは別物という想定
ポストモダンは積極的な価値をまだ作れていないが、我々は新しい絵画を渇望する。プルーラリズム・マルチカルチュラリズムに表現されるが結局方向性を持てないポストモダニズムは結局それぞれの固有のルールが交錯する場となるか、共有できる普遍的価値を見出すかは分からない。
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武器としての決断思考【書評】

【前提】知識・判断・行動の3つをつなげて考えて変化に合わせて自分で暫定的な最善解を出して生きていかなければならない。そのためにディベート思考を身につけることが大切。

【ディベート思考の内容】
<論題を立てる>
①二者択一になるくらい具体的なものを選ぶ(具体的な行動を取るべきか、否かが尚良い)
②議論に値するものを選ぶ
③明確に結論が出るものを選ぶ

※大きなテーマから議論可能な小さな論題に絞っていく


<メリットとデメリットを考える>
メリットの3条件
①内因性(何らかの問題があること)
②重要性(その問題が深刻であること)
③解決性(問題がその行動によって解決すること)

デメリットの3条件
①発生過程(論題の行動を取った時に、新たな問題が発生する過程)
②深刻性(その問題が深刻であること)
③固有性(現状ではそのような問題が生じていないこと)


<反論する>
◇メリットへの反論

・内因性への反論(そんな問題はそもそもないのでは?)
①プラン(論題の行動)を取らなくても問題は解決する
②そもそも現状に問題はない

・重要性への反論(問題だとしても、たいした問題では無いのでは?)
③質的に重要ではない
④量的に重要ではない

・解決性(問題がその行動によって解決すること)
⑤プランを取っても別の要因が生じるため、問題は解決しない
⑥プランは問題の原因を正しく解決しない


◇デメリットへの反論

・発生過程への反論(新たな問題は生じないのでは?)
①プランだけではデメリット発生には至らない(他の条件が必要)
②プランの影響はデメリット発生に至るには弱すぎる

・深刻性への反論(問題が生じたとしても、たいした問題ではないのでは?)
③質的に問題ではない
④量的に問題ではない

・固有性への反論(重要な問題だとしても、既にその問題は生じているのでは?)
⑤プランを取っていない現状でも問題は起こっている
⑥プランを取らなくても、将来同様の問題が起きる


※正しい主張は以下の3点を満たす
①主張に根拠がある
②根拠が反論にさらされている
③根拠が反論に耐えた

主張を支えるのが根拠で、その二者を推論がつないでいる
→推論と根拠に対して反論を加えていく

推論は大別すると下記3つのタイプ。それぞれの考え方の限界を抑えて反論を加える
①演繹
②帰納
③因果関係


<判定>
①上記で考えたメリットとデメリットを整理した上でそれぞれに反論を加える
②反論に3条件が全て耐えたならばそれをメリット/デメリットとして認める
③最後に残ったメリットとデメリットを「質×量×確率」を計算して比較する

かぐや姫【映画】

かぐや姫の物語を観てきました。

あまり期待していなかったのですが、素晴らしい作品でした。大筋は竹取物語のままなのですが、各登場人物それぞれの個性が際立っており、ストーリーを豊かなものにしていました。ストーリーだけでなく、日本画の手法を用いて作られたアニメーションは簡素で美しく、観ているだけで楽しい心に残るものでした。

全体としては山でのびのびと自然に囲まれて育ったかぐや姫が、都で自己中心的な人々に囲まれて不自由な暮らしを送ることことで身体性を失い心を閉ざしてしまう。そして、地球に対して嫌気が差して月へ帰ることを望むが、いざ月へ帰る段になって自分が育った自然豊かな地球の良さを再確認する物語。

画的な特徴で気づいた/良かった点

・静止画が多い
・背景が白
・平面性と遠近法の両取り
・最低限の線で表現
・単純な線・黒一色・少ない画数による疾走感の表現が秀逸


物語で気がついた点

・全員ご都合主義だが適応能力が異常(かぐや姫の誕生、都への移動)
・男性は徹底して自己中心(捨丸もおくさんがいた)
・味方は女の童とおばあさん(しつけのお姉さんも悪い人ではない)
・2回の夢?、2回目はかぐや姫サイドから始まり捨丸で終わる
・じいさんは結局俗世にまみれた自己中心的人物
・かぐや姫は両親に怒ってはいない
・地球を思ったことが罪で、罰は地球に行くこと
・徐々に絶望していくもいざとなると地球が好き
・成長が止まる
・名付けのお祝いの時かぐや姫が絶望した理由は?
・5人の求婚にも傷つく
・帝で決着
・誰かの「もの」になりたくない、身体性を失わず自然と自然にいきいきと生きて行きたかった
・捨丸も好きだった
・最初は月の力をもっていた
・桜で赤ちゃんにぶつかって絶望したのは?
・月と都のアナロジー
・地球はけがれではない
・本当の理解者たる女の童
・小鳥とバッタを逃すのは自分との類比
・自然と生物との触れ合い、いきいき
・歌
・月の人はかぐや姫が高貴な生活をするところまで織り込んでいる
・月に帰るトリガーが帰りたくなることなので、地球を思うこと並びに身体性へのあこがれが罪で身体性を知った上でそれを取り上げられることが罰なのでは?


月の者達はかぐや姫に身体性を与えてから奪うところまで計画していたと思われるが(月で聞いたわらべ歌、地球の特徴、かぐや姫に与えた金品ことなどによる)、そうすると罰は「憧れた地球に絶望すること」だけではないことになる。地球を嫌いにさせるだけであれば、辛い暮らしや死別などを味合わせれば良いのではないか。月にない「穢れ」「タブー」に敢えて触れさせることに意味があったことになる。

整合的に考えるためには

①地球を謳歌した後で一瞬嫌いになるが、その良さを再認識させた上で嫌々月に帰すという罰
②かぐや姫に対する罰は不徹底・失敗であった(地球を嫌いにさせきれなかった)

のどちらかだと考えられる。

①は結局地球の良さを月の者が認める形になる、地球の良さの再認識はかぐや姫に依るので考えにくい。②は「穢れた地球」に対してかぐや姫が「穢れてなんかいない」と答えたシーンからも妥当性がある。


そうすると物語は

・月という理想郷にいながら地球に憧れたかぐや姫を罰として地球に送り込んだ
・かぐや姫は身体性を楽しむがそれを奪われ、自己中心的な地球人に囲まれて育つ
・かぐや姫は楽しいことが一つもなくなり地球に絶望する
・罰がうまくいったので地球に月から迎えに行く
・しかし地球の自然に囲まれた身体性のある生活の魅力は高くかぐや姫は地球に絶望してもなお魅力を感じ続ける
・月の力には抗えず帰還


という物語になり主題は「身体性」が中心テーマなのだろう。やや浅い読みな気もするが、竹取物語のストーリーを変えること無く脚色した部分は全てここに集約されている。

スプツニ考!(Sputniko!) ~チンボーグ、チンコの歌~

今日はネットでも話題になった男性器を扱ったスプツニ子!の作品を紹介する。

まず一つ目はチンボーグ説明は下記の通り。

チンボーグは、
オープン・プロステティックス(オープン補綴学)という、義足や義手等の身体代替品(高価な物が多い)のデザインをオープンソース(無償公開)にするムーブメントから着想を得ています。身体部位という文字通り「身近」なものをオープンソースにする事は非常に合理的に思えますが、身体デザインのモチベーションが従来の<医療、科学、軍事>の枠からはみ出ると、一体どの様な進化をしていくのでしょう? そしてオープンソース特有のアマチュア文化は、どの様に身体デザインの分野で露呈するのでしょう? 執着、好奇心、こだわりや性癖など、非常に個人的なモチベーションによって身体がデザインされる事はあるのでしょうか? 「チンボーグ」は、23歳の英日ハーフ、身長173cmの大学院生である私が、「自身の感情によって動かす事のできる身体部位(この場合、ペニスですが)があると、私の心境はどう変わるのだろう?」というシンプルな好奇心を満たす為に作ったボディーパーツです。 2週間をかけ、実際に装着者の心拍数に基づいてモーターが上下に動くペニスが制作され、テストされました。この新しい身体部位は、私の行動を変えるのでしょうか?(あのフロイトさんの言っている事は、本当に正しいのでしょうか?)装着後の私にファントム・ペニス現象は起きるのでしょうか?そして私のようなアマチュアが、この様に自身の身体をオープンソースにする事は、一体どういう意味を持つのでしょうか? 


スプツニ子!はフロイトのペニスエンビーなどに代表されるような、ペニスを特別視した考え方やその先にある女性蔑視への皮肉を込めてこの作品を作ったのではないか。あとは単純な好奇心。

かなりネタ的な作品な気はするが、身体を拡張して女性が男性の気持ちを理解するという「生理マシーン、タカシの場合」の反対が起こせるかもしれないと考えるととても興味深い。テクノロジーによって両性の理解の促進や、性同一性障害の人の願望が叶えられるかもしれないのだ。

チンボーグによって、男性が女性の前で勃起してしまうという気持ち悪がられてたことが、案外普通なのかもしれないと受け入れられたり、男性とチンコとの特別な関係(ポジションが気になったりなど含む)に対して想像が利くようになるかもしれない。

またより広い視点から考えて、この作品をきっかけに身体のオープンソース化がより進んでいくと我々の身体はどのような形で拡張されていくのか考えるのも面白い。

例えば、幻影肢に陥った人に再度腕などを付け直す、自分のドキドキを相手の装置にダイレクトに伝える装置、コントロール可能な尻尾、壁を昇り降りできるような手先の吸盤、角、牙など様々な拡張身体が開発されていくかもしれない。そうすると、現在でもつきつけられている我々の身体の役割や範囲について更に考えていかなければならなくなるかもしれない。生身の肉体など拡張身体の「劣化版」にしかならないかもしれないのだから。


もう一つ紹介したいのは「チンコの歌」。
これもチンコについてなのだが、ただの歌ということもありやや趣が違う。

「う~ん、男の人って『女の人が好きだー』っていう感情をそのまま満喫していますよね。夕刊フジさんはその代表でしょ!? それって健康的でとっても良いことですよね。女の人だって、本当はみんな『Mens&boys大好きっ!』なのに、心の制限を解除できない。だから、女の人が元気になる作品として発表したんですよ」
ZAKZAKより
周りの爆笑やそれに応えている部分でかなり下品な感じがするが、一応この曲も男性中心的に社会が作られていて、男性が性的欲求を満たすようなコンテンツは世の中にはびこっており、それらに言及すること含めその行為が社会的にかなり容認されているにもかかわらず、女性のそれは無いということに対してのおかしさを訴えているのだろう。あとは先と同じでチンコってそんな意識するほど特別なのか?っていう部分もあるのかもしれない。



個人的にはこの2つによってスプツニ子!が変な人とか下品な人と思われてしまうのが残念である。チンコの歌は炎上マーケティング的なところもあり正直好きになれないが、チンボーグに関してはかなり深いテーマを持った装置だと思う。また、デザインもかなりかっこよく最近のテンガの商品のようだ。


正直もう書くこともなくなってきたので、スプツニ子!特集はここまで。奇抜で賛否を巻き起こすようなスプツニ子!の作品は、表面的に見るとただ面白いだけだが、実は裏にしっかりとしたテーマとテクノロジーの裏付けがありそれを考えられれば考えられるほど楽しめる。それはどのようなアート作品でもそうなのかもしれないが、ポップ・アートであり一般人、特に若者に親しみやすい様な形で提示してくれる分取っ付き易いので、これからも要チェックして社会を洞察していく縁としていきたい。

スプツニ考!(Sputniko!) ~寿司ボーグ☆ユカリ~

今度は「生理マシーン、タカシの場合」と一緒に2010年に東京都現代美術館のトランスフォーメーション展に提示された「寿司ボーグ☆ユカリ」をとりあげる。


この作品は他の作品に比べてかなり「ネタ」的な印象を受けたのだが、読み解きが甘いのかもしれない。いくつかの問題提起は分かるのだが、それらも「あるある」のようなものであり、他の作品のような鋭さが感じられない気がする。



「寿司ボーグ☆ユカリ」



【内容】
公式サイトによると下記の通り。

”世界屈指の頭脳&予算を持ったサイエンティストたちが競って美少女ロボットを開発している昨今、「寿司ボーグ☆ユカリ」は近未来東京で<女体盛り回転寿司モデル>として開発された女性型サイボーグ。 毎晩懸命に仕事帰りのサラリーマンを癒すユカリだが、彼女の知能が段々と発達していくにつれ、ユカリはただの「可愛いらしい接客サイボーグ」としての役割に不満を覚え、こっそりとキッチンで自分の身体を改造し始める。回転寿司部分にナイフを取り付け、自らを兵器として改造したユカリ。彼女はついに、女体回転寿司サイボーグ屋の脱出を試みるが...?”


実際の動画では、ユカリに殺されたサラリーマン達が倒れている映像がずっと流れている。男体盛りされた男、宴会芸をしていたのか鼻に割り箸が刺さったまま倒れた男をユカリが踏んづけるシーンなど。最後の方にユカリが本来の仕事である、回転寿司モデルの役割を果たしているシーンが出て終了する。


【感想】
テーマとしては、女性差別、機械と人間の境界、機械の暴走といったことになるのだろうか。あとは、日本の文化に対する外国のイメージを茶化しているのかもしれない。


とりあえずユカリがテクノロジーの力を使って、自分をトランスフォーメーションしたという点だけは納得できた。最後に回転寿司モデルの映像が流れるのは、ユカリが殺戮に意味が無いと感じて、元の姿に戻ったのかそれとも昔の映像なのかはよく分からない。もしくは脱出が失敗して毒気を人間によって抜かれた形に改造されてしまったのかもしれないが。


他に気になったのは、寿司と言いつつ枝豆がよく写ってる点とか目のアップの時にそれが動いていること、いきなり寿司を置いて踏み潰すことの意味だ。全くわからない。


本人はこの映像がパロディ要素を色々入れたブラックユーモアと言っているがどの点にパロディがあり、ブラックユーモアがあるか分からないのは非常に悔しい。結局最初に書いたとおりこの作品の「浅さ」はただ自分の浅さを反映しているのだろう。しばらく経ってからまた見て、再解釈してみたいと思う。

最後に本人がこの作品に言及している部分を紹介しておく。

スプ子: 「Body as Shop - 店舗としての身体」について考えていて、まず思い浮かんだのが海外で悪名高き幻のジャパニーズカルチャー「女体盛り」。その未来版として女体回転寿司サイボーグが頭に浮かびました。それで作ってみたら、動いた。詳しい背景はサイトで解説しているので、どうぞ!

ガイド: 短編映画では、ユカリが殺人鬼と化し、サラリーマンを血みどろに……確かに寿司ボークは一度試してみたいですが、これを見ると……サラリーマンの股間にはいなり寿司のようなものが(笑)。

スプ子: よく気づかれましたね! あの映画は色々なパロディー要素をこっそり入れていて自分では結構ギャグ映画かな、と思っていたんですが人に「ホラー」と言われ初めて「そうなのか!」と気づきました。隠しネタをもう1つバラすと、倒れたサラリーマンの一人に全身真っ黒の宇宙人がまざってるんです。未来だから。
All About スプツニ子さん~彼女はサイエンスより)


―― じゃあマシーンを作るアーティストとしての話も伺いましょう。「寿司ボーグ☆ユカリ」とか「メロディナイフ」のような殺戮系の作品がそうですけど、何か男に恨みでもあるんですか? スプ子 恨みはないですけど、私、三池崇史とタランティーノが大好きなんで。それに少しおちょくるくらいがちょうどいいと思っておりまして。これはイギリス人的なブラックユーモアかと思いますね。笑ったけど、これって笑っちゃいけないんじゃないか? とか、面白かったけど、それで良かったのか? と、笑った後で少し考えさせられるような。
(ASII.jp 美人すぎる理系アーティスト・スプツニ子さんはなぜ歌う?より)

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

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