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  <title>山月記</title>
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    <title>現代アートとは何か【書評】</title>
    <description>
    <![CDATA[<div>菅原教夫氏著作の『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E4%B8%B8%E5%96%84%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%8F%85%E5%8E%9F-%E6%95%99%E5%A4%AB/dp/4621051180" title="">現代アートとは何か</a>』についての書評。（読んだのは新書ではなく単行本）<br />
<br />
<br />
【目的】</div><div>現代アートとは何かという問いに答える。現代アートで頻用されるインスタレーション、現代絵画の状況、現代思想との交わりの3点から説明を試みる。<br />
<br />
＜それぞれのキーワード＞<br />
<br />
</div><div>・美術館からの飛び出し、プレモダン、新しいあり方（ツーウェイ・仮想現実）</div><div>・純化・還元とその限界を越えて</div><div>・思想との交わり、アートの拡張・概念化、場の拡張</div><div>【要約】<br />
第一章<br />
アートの現在</div><div></div><div></div><div>制作の場所や歴史や社会に関わる作品もある一方で、平凡な日常から隔絶された個別のゾーンを画そうとする作品にも出会う。</div><div></div><div>インスタレーションには美術館に収蔵されて良いものと、そうでないものがある。この問題を考える上で重要なのが、インスタレーションと美術館の関係。</div><div></div><div>「このように、ある特定の場所に置くことを前提に制作が進められた彫刻が、そのスペースから切り離されて展示されるようになったのは、近代の美術館の制度に従ったからだった。近代の美術館のスペースはホワイトキューブと形容されるニュートラルな性格を持っている。そこは空間の個性を排除することによって、作品の自立性を際立たせる作りなのであり、見るものの関心を作品の造形性に集中させるためにある。もし作品が場所の固有性から分離できるものであれば、それがどこに置かれてようとその意味は変わらないということになって、作品は確かに自立性を獲得する。この自立性こそはモダニズムの美術の特徴なのであり、作品のコスモポリタン的な性格を形作ってきたのだった。というのも消費社会はあらゆるものを商品化せずにおかないが、作品の移動可能性が作品の商品性を保証したからである。～～作品が特定の場所から切り離されたことが芸術の商品化を進めてきた、と言うことができる」</div><div></div><div>元来特定の場所に置くことが前提に制作されていた作品が、美術館により特定の場所から離された作品は本来持っていた作品の意味の一部を失うことに。</div><div></div><div>彫刻が抱えていた美術館の空間に対する不満は、60年代の美術の転換期において美術館を飛び出す制作に結実する。60年代のドラスティックな美術の転換とは、それまでの「絵画＝彫刻＝美術」という図式からの離脱を意味している。</div><div></div><div>美術館によって保証されてきた、ルネサンス以来の真実や美や古典といった伝統の価値にたんに寄りかかっている絵画や彫刻が美術のトップであるという構造が糾弾された。（機能を奪われた人工物などにも関心が向くように）</div><div></div><div>二十世紀のモダニズムは他人の事や社会を考えず複雑な現実から逃れて作品の中に人に侵されない聖域を築くことが課題であり、エリート主義を招いた。その反動で社会性を持った作品が登場。</div><div></div><div>モダニズムの行き詰まりは海・光・森など近代以前のプレモダンへの視点を提供。</div><div></div><div>新しいメディア（映像など）による可能性。機械と対話するツーウェイのシステムや、実際の揺れを伴って異次元の空間を旅するといった仮想現実の空間は、やはりこれまでの人間像を徐々に変えていくだろうという点で、ポスト・ヒューマンの美術への導入をなすものに相違いない。</div><div></div><div></div><div>第二章</div><div>絵画の行方</div><div>マティスの原色で描くフォービズムとブラックと共にピカソが気づいたキュビズムが20世紀の絵画に革命を起こした。</div><div></div><div>そもそも西洋の近代美術の歴史を振り返ってみると、非西洋の美術からの摂取によって、近代の美術を作ってきたと言える面がある。西洋のモダニズムの美術はマネから始まると一般的に言われるが、マネ以降の十九世紀後半の西洋美術は、日本の浮世絵から大きな影響を受けた。～～同じ事がピカソのアビニョンの娘たちの場合には黒人彫刻からの影響という点において見られる。キュビズムの革命もやはり非西洋の美術との接触によってもたらされたのである。</div><div></div><div>「デフォルメ」とう概念は写実性が写真の影響で絵画から奪われたから。黒人彫刻はもともと写実性ではなく乳房や性器の誇張があった。（西洋との違い）</div><div>このようにアートは西洋と黒人社会で違うがそもそもなにか？</div><div>アメリカの批評家ダントによると「アートとは思想や内容を体現し、ある意味を表すものである」</div><div></div><div>西洋近代美術では用途を持つものは一般にアートとは考えられないのだが、この籠・壷をそれぞれ大切にする部族はその認識を裏切っていてアートの定義をその意味で拡張する。</div><div>20世紀の美術ではデュシャンやバーンズなどにより用途から切り離されたものがアートだという考えに挑戦が行われた。</div><div></div><div>マティスを評価したアメリカのフォーマリズム批評家グリーンバーグによるとアメリカは西洋と違い美術の伝統がなかったためたえず新しさを求めてやまない戦後の前衛美術の中心になった。</div><div>実際戦後の美術の最高のものはアメリカから生まれた。戦後のアメリカ美術はヨーロッパの前衛美術の正統を刷新して継承するものだった。</div><div>グリーンバーグによるとアバンギャルドは<br />
<br />
「西洋では十九世の半ばに、芸術がデカダンに侵されているという危機感があった。アバンギャルドとはボードレールやフルベールらがその危機を克服するために、過去を模倣することなく西洋の宝物を生み出す方法を模索した運動だった。つまり確信を通じてティツィアーノやシェークスピアに匹敵する作品を創りだそうとしたのである。アヴァンギャルドはただたんに新しければいいというものではない。1850年代つまりマネの時代から美術の原則となってきたことは、質的には劣っている作品が前面に出て、最高のものは二十年間は埋もれる運命にあり続けたことである」</div><div>（ポップ・アートやミニマルアートやコンセプチュアルアートへの批判は、作品の質が悪いかマイナーで退屈なのにもかかわらず、人々がこの作品はどのような意味なのだろうと不思議に思うことによって美術たり得ていたに過ぎないから）</div><div></div><div>過去を模倣すること無く西洋の宝物を生み出す方法」はメディアに固有の要素をはっきりさせ、それに耐えざる事故批判を加えていくこと。絵の固有の要素とは大きさが限定された平らな面であること。</div><div>&rarr;まず具象絵画が切り捨てられる抽象へ、平面に三次元を描こうとするのは絵画の平面性に矛盾、物語を描くことも文学にも備わっております絵画固有ではな</div><div></div><div>「芸術における純粋性とは、その芸術のメディウム（媒体）の限界を受け入れること、それを喜んで受け入れることにある。～～それぞれの芸術が独自であり、漠然としてそれ自体であるのは、そのメディウムによってなのである」（美術固有のメディウムとは絵画における絵の具やキャンバスのこと、絵に書かれた主題は重要ではない。絵が自然に従属してはならず、メディウムの方が圧倒しなければならない。）</div><div></div><div>&rarr;平面性を意識し、不純物を極限まで除いたミニマルペインティング・ポストペンタリーなどが生まれる</div><div></div><div>行き詰まりに対しては絵を国外の視点やほかの芸術の視点も取り入れて広く捉え直そうとする運動などが起きる</div><div>※グリーンバーグはミニマルペインティングがモダニズムの終着点と考えていたわけではない</div><div></div><div>第三章</div><div>アートと現代思想</div><div>ミニマル・アートに行き着いたモダニズムの美術は、そこからの発展が難しくなった。「純化」「還元」を規範にするモダニズムの枠組みではそれ以上進んだ新しい美術は望めなくなったからである。</div><div>そこでポストモダンという既存のイメージを使って、つまり引用という方法によって、何かを語りかけようという美術が生まれた。</div><div>ポストモダンは主題が画一的ではないため一般化が難しく、現代の文化に批判・批評するが積極的につくろうという価値も明らかではない。</div><div></div><div>ポストモダンの思想的準備は、構造主義・ポスト構造主義へとつながる価値の相対化。それにより美術においてもモダニズムの権威に反抗が加えられた。ポストモダンの美術は作品の権威の根底にある構造を探る動きなのである</div><div></div><div>but非西洋の文化をその原形によってありのままに見ようとする態度も、結局は西洋内部の反省ないしは不安に基づく思考の組み換えから来ている</div><div>&rarr;ポストモダンは西洋の論理、日本ではやらず</div><div></div><div>ex.レヴィ=ストロースが熱帯の民族文化、野生の思考に熱狂しながら、その分析において、西洋の合理的な知性を介していたこととどこかつながっている（自己を相対化し相手の価値を受け入れ相手の価値判断も尊重したが分析は西洋的）</div><div></div><div>ポストモダンの美術が示したのは、その概念性。それは個々の作品のスタイル、視覚性を問うよりも、文化に対する考え方、態度を重視しており、それが興味の対象となる。</div><div>この制作が概念的だからこそ、作家たちの発言はそこで重要な作品の構成要素になっている。モダニズムの美術においては、作品が全てであり、作家たちの発言はそれを理解する上での補助的なものであったのと異なる。</div><div></div><div>こうなるとアートの意味も変わらざるを得ない。19世紀に美術館によって社会のエリートから大衆へアートが開放された。それは当初から妥協的な性格を持っていたのは事実だが市民にそこに展示されている絵画と彫刻がアートだという認識を広めた。それに対して60年代以降美術館を飛び出す従来の美術の枠組みを壊す作品が誕生。アートの概念が拡張。</div><div>アートは社会や歴史に応じて対称が変わるため定義が難しいが、コスースが唱えたように美術作品とはそれ自体がアートの定義であると言える。アートは従来の定義からはみだす価値をそこに付け加えることが出来てこそアートである。よってアートは従来のアートが持っていなかった価値観をたえずそこに導入していくことになる。そこではグリーンバーグが批判する「アート以外の価値観」がむしろ積極的に迎え入れられる。したがって美術を理解する方法もまた、従来の美術のやり方にとどまるものではない。様々な知見を総動員して、その解釈を実りあるものにするのが、新しいアートの本意いｎ沿うものである。実際、六十年代以降の美術を解釈する有効な武器として、人々は科学や哲学といったさまざまな分野の成果を援用してきた。</div><div><span style="font-size: 14px;">&nbsp;</span></div><div>・現象学とミニマル・アート<br />
それらは作品の内部には意味を見つけられない。一切のものを排除した絶対の世界で作品の置かれた空間、見る人、当の作品が関係する外部の場において意味が与えられる。</div><div>・ウィトゲンシュタインとポップ・アート<br />
難解な言葉ではなく日常の言語、外的言語で語る必要性が与えられた。<br />
<br />
</div><div></div><div>※多分モダニズムの終着点たるミニマル・アートと現象学的解釈をされるポストモダニズムのミニマルアートは別物という想定</div><div></div><div>ポストモダンは積極的な価値をまだ作れていないが、我々は新しい絵画を渇望する。プルーラリズム・マルチカルチュラリズムに表現されるが結局方向性を持てないポストモダニズムは結局それぞれの固有のルールが交錯する場となるか、共有できる普遍的価値を見出すかは分からない。</div>]]>
    </description>
    <category>書評</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%90%E6%9B%B8%E8%A9%95%E3%80%91</link>
    <pubDate>Mon, 23 Dec 2013 13:55:20 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>武器としての決断思考【書評】</title>
    <description>
    <![CDATA[【前提】知識・判断・行動の3つをつなげて考えて変化に合わせて自分で暫定的な最善解を出して生きていかなければならない。そのためにディベート思考を身につけることが大切。<br />
<br />
【ディベート思考の内容】<br />
＜論題を立てる＞<br />
①二者択一になるくらい具体的なものを選ぶ（具体的な行動を取るべきか、否かが尚良い）<br />
②議論に値するものを選ぶ<br />
③明確に結論が出るものを選ぶ<br />
<br />
※大きなテーマから議論可能な小さな論題に絞っていく<br />
<br />
<br />
＜メリットとデメリットを考える＞<br />
メリットの3条件<br />
①内因性（何らかの問題があること）<br />
②重要性（その問題が深刻であること）<br />
③解決性（問題がその行動によって解決すること）<br />
<br />
デメリットの3条件<br />
①発生過程（論題の行動を取った時に、新たな問題が発生する過程）<br />
②深刻性（その問題が深刻であること）<br />
③固有性（現状ではそのような問題が生じていないこと）<br />
<br />
<br />
＜反論する＞<br />
◇メリットへの反論<br />
<br />
・内因性への反論（そんな問題はそもそもないのでは？）<br />
①プラン（論題の行動）を取らなくても問題は解決する<br />
②そもそも現状に問題はない<br />
<br />
・重要性への反論（問題だとしても、たいした問題では無いのでは？）<br />
③質的に重要ではない<br />
④量的に重要ではない<br />
<br />
・解決性（問題がその行動によって解決すること）<br />
⑤プランを取っても別の要因が生じるため、問題は解決しない<br />
⑥プランは問題の原因を正しく解決しない<br />
<br />
<br />
◇デメリットへの反論<br />
<br />
・発生過程への反論（新たな問題は生じないのでは？）<br />
①プランだけではデメリット発生には至らない（他の条件が必要）<br />
②プランの影響はデメリット発生に至るには弱すぎる<br />
<br />
・深刻性への反論（問題が生じたとしても、たいした問題ではないのでは？）<br />
③質的に問題ではない<br />
④量的に問題ではない<br />
<br />
・固有性への反論（重要な問題だとしても、既にその問題は生じているのでは？）<br />
⑤プランを取っていない現状でも問題は起こっている<br />
⑥プランを取らなくても、将来同様の問題が起きる<br />
<br />
<br />
※正しい主張は以下の3点を満たす<br />
①主張に根拠がある<br />
②根拠が反論にさらされている<br />
③根拠が反論に耐えた<br />
<br />
主張を支えるのが根拠で、その二者を推論がつないでいる<br />
&rarr;推論と根拠に対して反論を加えていく<br />
<br />
推論は大別すると下記3つのタイプ。それぞれの考え方の限界を抑えて反論を加える<br />
①演繹<br />
②帰納<br />
③因果関係<br />
<br />
<br />
＜判定＞<br />
①上記で考えたメリットとデメリットを整理した上でそれぞれに反論を加える<br />
②反論に3条件が全て耐えたならばそれをメリット/デメリットとして認める<br />
③最後に残ったメリットとデメリットを「質&times;量&times;確率」を計算して比較する]]>
    </description>
    <category>書評</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%80%9D%E8%80%83%E3%80%90%E6%9B%B8%E8%A9%95%E3%80%91</link>
    <pubDate>Mon, 23 Dec 2013 13:35:46 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>かぐや姫【映画】</title>
    <description>
    <![CDATA[<a href="http://kaguyahime-monogatari.jp/beginning.html" title="">かぐや姫の物語</a>を観てきました。<br />
<br />
あまり期待していなかったのですが、素晴らしい作品でした。大筋は竹取物語のままなのですが、各登場人物それぞれの個性が際立っており、ストーリーを豊かなものにしていました。ストーリーだけでなく、日本画の手法を用いて作られたアニメーションは簡素で美しく、観ているだけで楽しい心に残るものでした。<br />
<br />
全体としては山でのびのびと自然に囲まれて育ったかぐや姫が、都で自己中心的な人々に囲まれて不自由な暮らしを送ることことで身体性を失い心を閉ざしてしまう。そして、地球に対して嫌気が差して月へ帰ることを望むが、いざ月へ帰る段になって自分が育った自然豊かな地球の良さを再確認する物語。<br />
<br />
画的な特徴で気づいた/良かった点<br />
<br />
・静止画が多い<br />
・背景が白<br />
・平面性と遠近法の両取り<br />
・最低限の線で表現<br />
・単純な線・黒一色・少ない画数による疾走感の表現が秀逸<br />
<br />
<br />
物語で気がついた点<br />
<br />
・全員ご都合主義だが適応能力が異常（かぐや姫の誕生、都への移動）<br />
・男性は徹底して自己中心（捨丸もおくさんがいた）<br />
・味方は女の童とおばあさん（しつけのお姉さんも悪い人ではない）<br />
・2回の夢？、2回目はかぐや姫サイドから始まり捨丸で終わる<br />
・じいさんは結局俗世にまみれた自己中心的人物<br />
・かぐや姫は両親に怒ってはいない<br />
・地球を思ったことが罪で、罰は地球に行くこと<br />
・徐々に絶望していくもいざとなると地球が好き<br />
・成長が止まる<br />
・名付けのお祝いの時かぐや姫が絶望した理由は？<br />
・5人の求婚にも傷つく<br />
・帝で決着<br />
・誰かの「もの」になりたくない、身体性を失わず自然と自然にいきいきと生きて行きたかった<br />
・捨丸も好きだった<br />
・最初は月の力をもっていた<br />
・桜で赤ちゃんにぶつかって絶望したのは？<br />
・月と都のアナロジー<br />
・地球はけがれではない<br />
・本当の理解者たる女の童<br />
・小鳥とバッタを逃すのは自分との類比<br />
・自然と生物との触れ合い、いきいき<br />
・歌<br />
・月の人はかぐや姫が高貴な生活をするところまで織り込んでいる<br />
・月に帰るトリガーが帰りたくなることなので、地球を思うこと並びに身体性へのあこがれが罪で身体性を知った上でそれを取り上げられることが罰なのでは？<br />
<br />
<br />
月の者達はかぐや姫に身体性を与えてから奪うところまで計画していたと思われるが（月で聞いたわらべ歌、地球の特徴、かぐや姫に与えた金品ことなどによる）、そうすると罰は「憧れた地球に絶望すること」だけではないことになる。地球を嫌いにさせるだけであれば、辛い暮らしや死別などを味合わせれば良いのではないか。月にない「穢れ」「タブー」に敢えて触れさせることに意味があったことになる。<br />
<br />
整合的に考えるためには<br />
<br />
①地球を謳歌した後で一瞬嫌いになるが、その良さを再認識させた上で嫌々月に帰すという罰<br />
②かぐや姫に対する罰は不徹底・失敗であった（地球を嫌いにさせきれなかった）<br />
<br />
のどちらかだと考えられる。<br />
<br />
①は結局地球の良さを月の者が認める形になる、地球の良さの再認識はかぐや姫に依るので考えにくい。②は「穢れた地球」に対してかぐや姫が「穢れてなんかいない」と答えたシーンからも妥当性がある。<br />
<br />
<br />
そうすると物語は<br />
<br />
・月という理想郷にいながら地球に憧れたかぐや姫を罰として地球に送り込んだ<br />
・かぐや姫は身体性を楽しむがそれを奪われ、自己中心的な地球人に囲まれて育つ<br />
・かぐや姫は楽しいことが一つもなくなり地球に絶望する<br />
・罰がうまくいったので地球に月から迎えに行く<br />
・しかし地球の自然に囲まれた身体性のある生活の魅力は高くかぐや姫は地球に絶望してもなお魅力を感じ続ける<br />
・月の力には抗えず帰還<br />
<br />
<br />
という物語になり主題は「身体性」が中心テーマなのだろう。やや浅い読みな気もするが、竹取物語のストーリーを変えること無く脚色した部分は全てここに集約されている。<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>映画</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E6%98%A0%E7%94%BB/%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB%E3%80%90%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%91</link>
    <pubDate>Fri, 20 Dec 2013 14:49:22 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>スプツニ考！（Sputniko!)　～チンボーグ、チンコの歌～</title>
    <description>
    <![CDATA[今日はネットでも話題になった男性器を扱ったスプツニ子！の作品を紹介する。<br />
<br />
まず一つ目は<a href="http://sputniko.com/2011/08/penis-cybernetique/" title="">チンボーグ</a><a href="http://sputniko.com/2011/08/penis-cybernetique/" title="">。</a>説明は下記の通り。<blockquote><span style="color: #444444; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;"><br />
チンボーグは、</span><a href="http://openprosthetics.org/" target="_blank" style="color: #ff3399; font-weight: bold; text-decoration: none; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;">オープン・プロステティックス（オープン補綴学）</a><span style="color: #444444; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;">という、義足や義手等の身体代替品（高価な物が多い）のデザインをオープンソース（無償公開）にするムーブメントから着想を得ています。身体部位という文字通り「身近」なものをオープンソースにする事は非常に合理的に思えますが、身体デザインのモチベーションが従来の＜医療、科学、軍事＞の枠からはみ出ると、一体どの様な進化をしていくのでしょう？　そしてオープンソース特有のアマチュア文化は、どの様に身体デザインの分野で露呈するのでしょう？　執着、好奇心、こだわりや性癖など、非常に個人的なモチベーションによって身体がデザインされる事はあるのでしょうか？&nbsp;</span><span style="color: #444444; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;">「チンボーグ」は、２３歳の英日ハーフ、身長１７３cmの大学院生である私が、「自身の感情によって動かす事のできる身体部位（この場合、ペニスですが）があると、私の心境はどう変わるのだろう？」というシンプルな好奇心を満たす為に作ったボディーパーツです。&nbsp;</span><span style="color: #444444; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;">２週間をかけ、実際に装着者の心拍数に基づいてモーターが上下に動くペニスが制作され、テストされました。この新しい身体部位は、私の行動を変えるのでしょうか？（あのフロイトさんの言っている事は、本当に正しいのでしょうか？）装着後の私にファントム・ペニス現象は起きるのでしょうか？そして私のようなアマチュアが、この様に自身の身体をオープンソースにする事は、一体どういう意味を持つのでしょうか？&nbsp;<br />
</span></blockquote><span style="color: #444444; font-family: Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 11px; line-height: 17px;"><br />
</span><br />
スプツニ子！はフロイトのペニスエンビーなどに代表されるような、ペニスを特別視した考え方やその先にある女性蔑視への皮肉を込めてこの作品を作ったのではないか。あとは単純な好奇心。<br />
<br />
かなりネタ的な作品な気はするが、身体を拡張して女性が男性の気持ちを理解するという「生理マシーン、タカシの場合」の反対が起こせるかもしれないと考えるととても興味深い。テクノロジーによって両性の理解の促進や、性同一性障害の人の願望が叶えられるかもしれないのだ。<br />
<br />
チンボーグによって、男性が女性の前で勃起してしまうという気持ち悪がられてたことが、案外普通なのかもしれないと受け入れられたり、男性とチンコとの特別な関係（ポジションが気になったりなど含む）に対して想像が利くようになるかもしれない。<br />
<br />
またより広い視点から考えて、この作品をきっかけに身体のオープンソース化がより進んでいくと我々の身体はどのような形で拡張されていくのか考えるのも面白い。<br />
<br />
例えば、幻影肢に陥った人に再度腕などを付け直す、自分のドキドキを相手の装置にダイレクトに伝える装置、コントロール可能な尻尾、壁を昇り降りできるような手先の吸盤、角、牙など様々な拡張身体が開発されていくかもしれない。そうすると、現在でもつきつけられている我々の身体の役割や範囲について更に考えていかなければならなくなるかもしれない。生身の肉体など拡張身体の「劣化版」にしかならないかもしれないのだから。<br />
<br />
<br />
もう一つ紹介したいのは「チンコの歌」。<script type="text/javascript" src="http://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm4568754?w=400&amp;h=300"></script><br />
これもチンコについてなのだが、ただの歌ということもありやや趣が違う。<blockquote><br />
「う～ん、男の人って『女の人が好きだー』っていう感情をそのまま満喫していますよね。夕刊フジさんはその代表でしょ！？ それって健康的でとっても良いことですよね。女の人だって、本当はみんな『Ｍｅｎｓ＆ｂｏｙｓ大好きっ！』なのに、心の制限を解除できない。だから、女の人が元気になる作品として発表したんですよ」<br />
（<a href="http://www.zakzak.co.jp/people/news/20110105/peo1101051611000-n1.htm" title="">ZAKZAKより</a>）</blockquote>周りの爆笑やそれに応えている部分でかなり下品な感じがするが、一応この曲も男性中心的に社会が作られていて、男性が性的欲求を満たすようなコンテンツは世の中にはびこっており、それらに言及すること含めその行為が社会的にかなり容認されているにもかかわらず、女性のそれは無いということに対してのおかしさを訴えているのだろう。あとは先と同じでチンコってそんな意識するほど特別なのか？っていう部分もあるのかもしれない。<br />
<br />
<br />
<br />
個人的にはこの２つによってスプツニ子！が変な人とか下品な人と思われてしまうのが残念である。チンコの歌は炎上マーケティング的なところもあり正直好きになれないが、チンボーグに関してはかなり深いテーマを持った装置だと思う。また、デザインもかなりかっこよく最近の<a href="http://www.tenga.co.jp/" title="">テンガの商品</a>のようだ。<br />
<br />
<br />
正直もう書くこともなくなってきたので、スプツニ子！特集はここまで。奇抜で賛否を巻き起こすようなスプツニ子！の作品は、表面的に見るとただ面白いだけだが、実は裏にしっかりとしたテーマとテクノロジーの裏付けがありそれを考えられれば考えられるほど楽しめる。それはどのようなアート作品でもそうなのかもしれないが、ポップ・アートであり一般人、特に若者に親しみやすい様な形で提示してくれる分取っ付き易いので、これからも要チェックして社会を洞察していく縁としていきたい。<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>アート</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E8%80%83%EF%BC%81%EF%BC%88sputniko--%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%80%81%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%AD%8C%EF%BD%9E</link>
    <pubDate>Thu, 12 Dec 2013 15:55:04 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>スプツニ考！（Sputniko!)　～寿司ボーグ☆ユカリ～</title>
    <description>
    <![CDATA[今度は「生理マシーン、タカシの場合」と一緒に2010年に東京都現代美術館のトランスフォーメーション展に提示された「寿司ボーグ☆ユカリ」をとりあげる。<br />
<br />
<br />
この作品は他の作品に比べてかなり「ネタ」的な印象を受けたのだが、読み解きが甘いのかもしれない。いくつかの問題提起は分かるのだが、それらも「あるある」のようなものであり、他の作品のような鋭さが感じられない気がする。<br />
<br />
<br />
<iframe width="400" height="225" src="http://www.youtube.com/embed/zGTzZ20SRqo" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe><br />
「寿司ボーグ☆ユカリ」<br />
<br />
<br />
<br />
【内容】<br />
公式サイトによると下記の通り。<br />
<blockquote><br />
&rdquo;世界屈指の頭脳＆予算を持ったサイエンティストたちが競って美少女ロボットを開発している昨今、「寿司ボーグ☆ユカリ」は近未来東京で＜女体盛り回転寿司モデル＞として開発された女性型サイボーグ。 毎晩懸命に仕事帰りのサラリーマンを癒すユカリだが、彼女の知能が段々と発達していくにつれ、ユカリはただの「可愛いらしい接客サイボーグ」としての役割に不満を覚え、こっそりとキッチンで自分の身体を改造し始める。回転寿司部分にナイフを取り付け、自らを兵器として改造したユカリ。彼女はついに、女体回転寿司サイボーグ屋の脱出を試みるが．．．？&rdquo;<br />
<br />
<br />
</blockquote>実際の動画では、ユカリに殺されたサラリーマン達が倒れている映像がずっと流れている。男体盛りされた男、宴会芸をしていたのか鼻に割り箸が刺さったまま倒れた男をユカリが踏んづけるシーンなど。最後の方にユカリが本来の仕事である、回転寿司モデルの役割を果たしているシーンが出て終了する。<br />
<br />
<br />
【感想】<br />
テーマとしては、女性差別、機械と人間の境界、機械の暴走といったことになるのだろうか。あとは、日本の文化に対する外国のイメージを茶化しているのかもしれない。<br />
<br />
<br />
とりあえずユカリがテクノロジーの力を使って、自分をトランスフォーメーションしたという点だけは納得できた。最後に回転寿司モデルの映像が流れるのは、ユカリが殺戮に意味が無いと感じて、元の姿に戻ったのかそれとも昔の映像なのかはよく分からない。もしくは脱出が失敗して毒気を人間によって抜かれた形に改造されてしまったのかもしれないが。<br />
<br />
<br />
他に気になったのは、寿司と言いつつ枝豆がよく写ってる点とか目のアップの時にそれが動いていること、いきなり寿司を置いて踏み潰すことの意味だ。全くわからない。<br />
<br />
<br />
本人はこの映像がパロディ要素を色々入れたブラックユーモアと言っているがどの点にパロディがあり、ブラックユーモアがあるか分からないのは非常に悔しい。結局最初に書いたとおりこの作品の「浅さ」はただ自分の浅さを反映しているのだろう。しばらく経ってからまた見て、再解釈してみたいと思う。<br />
<br />
最後に本人がこの作品に言及している部分を紹介しておく。<br />
<blockquote><br />
スプ子： 「Body as Shop - 店舗としての身体」について考えていて、まず思い浮かんだのが海外で悪名高き幻のジャパニーズカルチャー「女体盛り」。その未来版として女体回転寿司サイボーグが頭に浮かびました。それで作ってみたら、動いた。詳しい背景はサイトで解説しているので、どうぞ！<br />
<br />
ガイド： 短編映画では、ユカリが殺人鬼と化し、サラリーマンを血みどろに&hellip;&hellip;確かに寿司ボークは一度試してみたいですが、これを見ると&hellip;&hellip;サラリーマンの股間にはいなり寿司のようなものが（笑）。<br />
<br />
スプ子： よく気づかれましたね！ あの映画は色々なパロディー要素をこっそり入れていて自分では結構ギャグ映画かな、と思っていたんですが人に「ホラー」と言われ初めて「そうなのか！」と気づきました。隠しネタをもう１つバラすと、倒れたサラリーマンの一人に全身真っ黒の宇宙人がまざってるんです。未来だから。<br />
（<a href="http://allabout.co.jp/gm/gc/375847/6/" title="">All About スプツニ子さん～彼女はサイエンス</a>より）</blockquote><br />
<br />
<blockquote>―― じゃあマシーンを作るアーティストとしての話も伺いましょう。「寿司ボーグ☆ユカリ」とか「メロディナイフ」のような殺戮系の作品がそうですけど、何か男に恨みでもあるんですか？ スプ子 恨みはないですけど、私、三池崇史とタランティーノが大好きなんで。それに少しおちょくるくらいがちょうどいいと思っておりまして。これはイギリス人的なブラックユーモアかと思いますね。笑ったけど、これって笑っちゃいけないんじゃないか？ とか、面白かったけど、それで良かったのか？ と、笑った後で少し考えさせられるような。<br />
(<a href="http://ascii.jp/elem/000/000/507/507353/index-7.html" title="">ASII.jp 美人すぎる理系アーティスト・スプツニ子さんはなぜ歌う？</a>より)</blockquote>]]>
    </description>
    <category>アート</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E8%80%83%EF%BC%81%EF%BC%88sputniko--%E3%80%80%EF%BD%9E%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B0%E2%98%86%E3%83%A6%E3%82%AB%E3%83%AA%EF%BD%9E</link>
    <pubDate>Sun, 08 Dec 2013 14:50:19 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>スプツニ考！（Sputniko!）　～生理マシーン、タカシの場合～</title>
    <description>
    <![CDATA[今日からはスプツニ子！の作品を1つずつ考えていく。先日書いたとおり、スプツニ子！の作品はあくまで、議論を巻き起こすためのものであり「正解」というものはないので、作者の問題意識や訴えたいテーマについて踏まえた上で自分なりの解釈を書く。<br />
<br />
<br />
最初に取り上げるのは「生理マシーン、タカシの場合」。最初に取り上げた理由としては、これがスプツニ子！の作品の中で最も衝撃を受けた作品だからである。「生理」というテーマを真正面から扱ったこと、生理を体感できるマシーンを実際に作ったこと、「テクノロジーに関わる女性の数が少ないから女性側の問題が解決されない。生理を男も感じてたら既に解決されている。実際ピルの認証は９年かかったのに、バイアグラは６ヶ月だった。」という問題意識全てが自分にとって新鮮だった。<br />
<br />
<br />
<br />
<iframe width="400" height="225" src="http://www.youtube.com/embed/gnb-rdGbm6s" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe><br />
生理マシーン、タカシの場合<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
【問題意識】<br />
21世紀を迎え、テクノロジーによってコントロールが可能なはずの生理はなぜまだ起きるのか。性別、文化、宗教などの差異から生理への考え方が異なり、生理をどう扱うかも違っているが、我々にとって生理の持つ意味は何なのか。もし生理が必ずしも必要では無くなった場合、誰が何の理由で生理になるのだろうか。（<a href="http://sputniko.com/2011/08/menstruation-machine-takashis-take-2010/" title="">Sputniko!公式サイト</a>より）<br />
<br />
<br />
<br />
【内容】<br />
まずはオフィシャルサイトの説明から。<blockquote><br />
<br />
「ボクはオンナノコになりたい、オンナノコの気持ちをもっと知りたい！」ーーそんな想いから、こっそり女装を始めるようになった不思議少年＜タカシ＞。 しかし彼は女性的な外見を装うだけでは満足出来ず、 女性特有の生物現象である＜月経／Menstruation＞までも 身に着けるために＜生理マシーン＞を作る。 女性の平均月経量である８０mlを５日間かけてタンクから流血し、 下腹部についた電極がリアルで鈍い生理痛を装着者に体感させる＜生理マシーン＞。タカシはそれを自ら着けて友人と夜のまちへ出かけるが．．．！？（<a href="http://sputniko.com/2011/08/menstruation-machine-takashis-take-2010/" title="">Sputniko!公式サイト</a>より）</blockquote>実際の動画は、タカシが部屋で女装してくシーンから始まる。タカシは女装が終わった後、より女性に近づくために、生理マシーンを装着して女友達と遊びにく。プリクラを一緒に撮って楽しんだ後、外を歩いている時にタカシは生理痛に耐えられずしゃがみこんでしまい、トイレにかけこむ。生理痛と生々しい血の滴りを感じながら、タカシは顔を歪めてもだえる。そして、最後には楽しそうに女友達とカラオケを歌っているシーンが移り動画は終了する。歌詞は「生理マシーン」からタカシへ向けた、「女性がどういうことを体験してるか知りたいんでしょ？痛いでしょ？辛いでしょ？でも知りたいんならきちんと体験しないとね？」といった挑発的なメッセージである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
【感想】<br />
生理とは何かということ自体今まで考えたことがなかったので、生理とは何か考える切っ掛けとなったが、生理自体について自分含めた男性陣が少しも考えてことがないこと自体が、男性の女性に対する不理解なのだということを気付かされた。<br />
<br />
<br />
皆少しは、月一回の辛いモノみたいなことは知っているが、結局自分に関係ないため、やはり意識は向かわないし「本当に大変なの？女が騒いでるだけじゃないの？」みたいな偏見からも逃れられない。しかし、この作品を見て自分がこの生理マシーンを装着することを考えると、その大変さへの想像力が強く喚起され、もっと社会全体で考え取り組んでいくべき問題なのかもしれないと想えるようになった。タカシの苦悶の表情がそれを強く訴えかけてくる。<br />
<br />
<br />
しかし、この作品は先述の通りジェンダーの問題だけにはとどまらない。生理とは何かという観点からも見ていかなければならない。それは「タカシの場合」という名前が象徴している。実際スプツニ子！も下記のような発言をしている。<div></div><blockquote><div>&rdquo;そうですね。例えば「生理マシーン」は男性用だけじゃなくて、もし未来に生理という現象がなくなったときに、女の子たちが自分のアイデンティティを確認するために装着するというシチュエーションも想定しているんです。だから、「生理マシーン、ユミコの場合。」とかも作りたい。そうやって同じコンセプトで曲をたくさん作るということもやっていきたいですね。&rdquo;（<a href="http://public-image.org/column/2010/10/12/session06-2.html" title="">PUBLIC-IMAGE ORG</a> より）</div><div></div></blockquote><div></div>そこで他にどんなシュチュエーションが想定できるかを考えてみた。例えば、上述のテクノロジーによって生理が無くなった世界で自らの身体性や性をを確認したくなった時。閉経した女性が若き頃の体験を思い出すため。女性の気持ちを理解するために保健体育で、男子につけさせるため。生理が来る前の女の子に、その大変さを思い知らせてきちんと準備させるため。小学校高学年の生理が早い子と遅い子の間で扱いや、知識が変わらないように調整するため。色々なパターンが思いついたが、どれも生理とは何かという答えにはなっていない。<br />
<br />
<br />
もし生理の痛みや辛さが、コントロールできるようになったら生理は不要なのだろうか？自分が主体者ではないこともあってそれはそれで良い気がする。しかしながら、このような問題をそんな簡単に判断して良いのだろうか。そもそもこれは「合理」という観点から判断が許されるべき問題なのだろうか。<br />
<br />
<br />
仮に生理のコントロールが良いのであれば、我々は自らの身体に他にどこまで、テクノロジーの介入を許すのだろうか？生理だけではなく、精子や卵子、妊娠や出産あど全てコントロールして良いのだろうか？それは「神への冒涜」ではないのだろうか？<br />
<br />
<br />
ただ、結局私はこのようなテクノロジーが生まれたら是認すべきであると考える。それは、苦痛を避けて快楽へ向かう人間の不可避的な運動であり止められない上、価値判断は個人によって自由に判断されるべきと考えるからである。そして、自分を含めて一定程度そのような身体へのテクノロジーの介入を避ける人々も存在すると思われ、存在基盤を失うことはないと思うからである。<br />
<br />
<br />
遠くない将来、このスプツニ子！の問題提起は生理という枠組みを超えて、実体的な形で我々に迫ってくるだろう。その時にどのような答えを自分なりに用意できるかをこの動画をベースにもっと考えていきたい。<br />
<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>アート</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E8%80%83%EF%BC%81%EF%BC%88sputniko-%EF%BC%89%E3%80%80%EF%BD%9E%E7%94%9F%E7%90%86%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%81</link>
    <pubDate>Sat, 07 Dec 2013 13:59:50 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>スプツニ考！（Sputniko!)</title>
    <description>
    <![CDATA[<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">先月行った東京都現代美術館の<a href="http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/148/" title="">うさぎスマッシュ展</a>に行きスプツニ子！なる人物を知ってとても作品が面白く、流れていた音楽が中毒性が高くハマってしまった。色々調べていたところ丁度<a href="http://www.mbs.jp/jounetsu/2013/11_17.shtml" title="">情熱大陸</a>でもとりあげられ、<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%BF%E3%81%A0%E3%81%99%E5%8A%9B-%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E5%AD%90/dp/480021792X/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1386257592&amp;sr=1-1" title="">本も発売され</a>、一躍時の人のようになってきているようだ。<br />
<br />
<br />
<iframe width="400" height="225" src="http://www.youtube.com/embed/6P1uFNdKdQA" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe><br />
<br />
「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」（うさぎスマッシュ展に展示中）</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
そこで何回かに分けてスプツニ子！についてブログを書いてみようと思う。まず初めは簡単なプロフィールと基本的なスタンス、考え方をとりあげる。次回以降作品などについて触れていく。<br />
<br />
<br />
【プロフィール】<br />
スプツニ子はサイボーグ／身体拡張／ジェンダー／アイデンティティー／ポップカルチャーなどのテーマを軸に音楽や映像、デバイスの制作をしている『サイボーグ乙女』です。<span style="font-size: 14px;">（</span><a href="http://www.cbc-net.com/dots/sputniko/01/" title="" style="font-size: 14px;">CBCNET</a><span style="font-size: 14px;">より）</span></p><div></div><p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">・1985年7月1日東京に生まれる。父親は日本人、母親はイギリス人。両親とも数学者で、本人もインペリアル・カレッジ・ロンドンの数学科および情報工学科を卒業。<br />
<br />
・2010年ロンドンRoyal College of ArtDesign Interactions学科修士課程修了。・2007年よりロンドンを中心に音楽やデバイス、映像制作などのアーチスト活動を行う。<br />
<br />
・2009年ドラディカル・デザイン（=ドラえもん＋ラディカルデザイン）の着想を得る。</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">・2010年6月末からロンドンRoyal College of Artでの卒業制作発表展「Show Two」で作品が展示される。発表映像作品のひとつ『生理マシーン、タカシの場合。』がヨーロッパなどで反響を呼んだ。（ユーザー投票により「YouTube Video Awards Japan 2010」 の「テクノロジー・乗り物」部門を受賞）</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">・2011年7月からのニューヨーク近代美術館（MOMA）での企画展「Talk to me」に出展。<br />
<br />
・2013年秋よりMITメディアラボの助教に就任予定。<br />
<br />
（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/Sputniko!" title="">wikipedia</a>より抜粋）<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ハーフで高校は日本のアメリカンスクール、大学はイギリス学士課程・修士課程共にイギリスで過ごす。数学者の両親に育てられて、幼き頃から数学をずっと勉強してきた理系女子であり全く大衆側の人間ではない。様々な点でマイノリティ側に属しているからこそ、鋭く独自の視点で社会を批評する目が培われたのではないか。（イギリスのカルチャーも影響しているだろう）<br />
<br />
<br />
<br />
【スタンス】<br />
スプツニ子！がしたいことは人々の常識を崩すこと。そのために、枠に囚われること無く様々な領域を縦横無尽に駆け巡り、社会の現実的な現象・課題を科学的な観点を含めて入念にリサーチして、把握・再検討する。そのプロセスによって見えてきた新しい観点を一つのコンセプトにまとめあげ、それを一人ではなくチームを率いることで、最も人々の議論を巻き起こせるような大衆に向けたポップ・アートという形で作品を完成させる。あくまで人々の常識を崩すことが最優先であり、自分の考えや「正解」は提示せず、人々が自分自身で考えるきっかけを作る。<br />
<br />
<br />
このスタンスは下記のようなインタビューから見て取れる<br />
<br />
</p><blockquote><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
&rdquo;根底にあるのは常識を崩したいというパンク精神です。常識を崩すというと、奇をてらうことだと勘違いしている人もいるけれど、それは違うと思っています。人が本当にびっくりするのは、常識や現実からほんの少しずれたことが起きた時。常識や現実からかけ離れてしまうと、理解や共感ができなくなってしまうんです。&rdquo;<br />
<br />
<br />
<br />
&rdquo;だから、作品を作るときには科学的なリサーチを入念に行い、そこから「これは本当なのかな」と批判的に考えて現状を少しずらすというアプローチを取ることが多いですね。アートに限らずどんな分野でも、新しい発見というのはゼロからは生まれません。すでにあるルールをきちんと見つめ直し、それが本当に正しいのかを疑ってみてやっと次の新しいものが見えてくると思っています。&rdquo;</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
<br />
&rdquo;今、私が興味を持っているのはみんなの既成概念を変えるきっかけを作ること。地域格差だったり、ジェンダーの問題だったり、常に社会のバグみたいなものを掘り起こして「これ見なよ」と突きつけるような非常に厄介な人でありたいなと。&rdquo;<br />
<br />
（<a href="http://journal.rikunabi.com/work/job/job_vol91.html" title="">リクナビ就職ジャーナル</a>より）</p><br />
</blockquote><p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
<br />
<br />
【考え方】<br />
スプツニ子！の生み出した考えにドラディカルデザインがある。上記スタンスと重複する部分も多いが、スプツニ子！が考えだした、彼女の考え方を端的に表す概念なので紹介しておく。<br />
<br />
<br />
ドラディカル・デザインとは「ドラえもん」 と「 ラディカル・デザイン」を組み合わせて作った造語である。<br />
<br />
<br />
彼女によると「ドラえもん」はその秘密道具から生まれるドタバタ劇を通して、毎週テクノロジーや社会通念、環境問題についてわたし達を考えさせる。それは下記3つの要素を持つクリティカルデザインに、プロダクト周りの世界観、キャラクターや物語を付加したラディカルデザインとそっくりであるとのこと。</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">&nbsp;</p><blockquote><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">＜クリティカルデザイン＞</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">１．あるプロダクトを提案／デザインし<br />
２．その使い道を、見る側に考えさせる事によって<br />
３．私達の持つ価値観や道徳、行動、社会について振り返えさせる</p><br />
</blockquote><p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
そして、スプツニ子！はドラえもんが結末を用意せずに、オープンエンドにして人々が議論したり自分自身で考えられるようになったほうが面白いと考えており、彼女のドラディカルデザインには起承転結の「結」はない。<br />
<br />
</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;">スプツニ子！によるとこのドラディカルなアプローチを＜生理マシーン、タカシの場合＞では試したとのことである。（ということはこの作品以外はドラディカルではないのか？）</p><br />
<p style="margin: 0px 0px 1em; padding: 0px;"><br />
少し長くなったが、以上がスプツニ子！の紹介である。次回以降は彼女の作品について書いていく。</p>]]>
    </description>
    <category>アート</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%84%E3%83%8B%E8%80%83%EF%BC%81%EF%BC%88sputniko--</link>
    <pubDate>Thu, 05 Dec 2013 15:46:23 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">sangetsuki.edoblog.net://entry/10</guid>
  </item>
    <item>
    <title>日本人はなぜ存在するか【書評】</title>
    <description>
    <![CDATA[與那覇潤の<a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E7%9F%A5%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E8%88%87%E9%82%A3%E8%A6%87-%E6%BD%A4/dp/4797672595" title="">『<span style="text-decoration: underline;">日本人はなぜ存在するか</span>』</a>を読みました。<br />
<br />
<br />
【目的】<br />
グローバル時代に求められているのは「ハイコンテクスト」なものを「ローコンテクスト」なものに翻訳する力である。本書では「日本」という極めて「ハイコンテクスト」な社会に生きている我々が自明視している「日本人」について、様々な学問的方法論を用いながら、その「ハイコンテクスト」性を露わにしつつ「日本人」のローコンテクスト化を図る。<br />
<br />
<br />
【目次】<br />
第１章 「日本人」は存在するか <br />
第２章 「日本史」はなぜ間違えるか <br />
第３章 「日本国籍」に根拠はあるか<br />
第４章 「日本民族」とは誰のことか <br />
第５章 「日本文化」は日本風か<br />
第６章 「世界」は日本をどう見てきたか<br />
第７章 「ジャパニメーション」は鳥獣戯画か <br />
第８章 「物語」を信じられるか<br />
第９章 「人間」の範囲はどこまでか <br />
第10章 「正義」は定義できるか<br />
<br />
<br />
【要約】<br />
第一章<br />
国籍・日本語能力・民族的血統・現居住地いずれの観点からも「日本人」は定義し得るため、一義的な定義は難しい。認識論的に考えれば、は初めから実体として存在する「日本人」を我々が認識しているのではなく、我々が「日本人」として認識したものが、日本人として出現しており、会話の文脈によってその定義が移り変わる<span style="text-decoration: underline;"><strong>再帰的</strong></span>なものである。そして、人間が相互作用しながら作り上げている社会はあらゆるものが再帰的に存在するという見方で見るのが社会学であり、社会学的立場からすると近代とは下記のように定義される。<blockquote><br />
「（前近代の文明では、再帰性は依然伝統の再解釈と明確化だけにほぼ限定されており・・・・）しかし近代の社会生活の有す再帰性は、社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して新たに得た情報によってつねに吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる」（アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か？』）<br />
<br />
</blockquote>第二章<br />
既に終わった過去たる歴史も我々は再帰的なものであり、歪みが発生しうる。それは我々は「物語」を作ることなく広大な歴史を理解するが、その「物語」を後の出来事を知っている「現在」から構築するからである。我々は後から構成した「物語」に都合の良い事実のみに着目したり、結末を知っているが故に「解釈」を加えてしまったりするのである。<br />
<br />
<br />
第三章<br />
国籍も人為的に作られたものであり、再帰的な存在である。国籍制度には「血統主義」と「生地主義」という２種類の考え方がある。日本では「血統」を重視する「伝統」があるという立場から「血統主義」を採用しているが、実際には「家制度」と「血統主義」の間で揺れ動いてきた。そもそも「血統」が指すものは社会や時代によって変わりうる上、「血のつながり」という考え自体が再帰的なものなのである。<br />
<br />
<br />
第四章<br />
民族という概念は、政治権力から疎外されたり、ある国家の中で自分たちはマイノリティ（数の多寡ではなく、政治的弱者）だと感じている人々が、自分たちのアイデンティティを表明して、異議申し立てをするための道具として始まった。国民と民族という別個のアイデンティティのユニットは「再帰性はふたつ組み合わせることで、ひとつのときよりも安定する」言葉のように組み合わさることで安定性を生み出した。しかし、憲法による法律のコントロールと比べて民族の概念によって国民国家を制御する仕組みは、最初から単一の回答が社会から要請されており、グレーゾーンが許容されないためにしばしば暴走を起こす。<br />
<br />
<br />
第五章<br />
文化は「その国に古くからずっとあって、いまも変わらない伝統的なもの」という印象があるが、この単語の初期の意味は「過程」であった。そして我々は文化に関して多くの誤解をしている。第一にそれは必ずしも「古くから変わらないもの」ではなく時代に応じてつねに変化してゆく。第二に、文化とは「国別」に分かれているとは限らず、むしろ国境を越えて共有される。第三に「政治とは違って、中立的で平和裏なもの」といったニュアンスがあるが、文化を享受するという体験自体が実際には政治的営みである。日本文化も戦前は「海外から新しいものを取り入れて進化するのが当たり前だ」と考えられていたが、その発想が戦争敗北により大東亜共栄圏の夢とともに挫折すると、反省として「各国の文化は固有であり、安易に変えられないし、混ぜあわせられない」と考えられるようになったのかもしれない。このように文化も再帰的なものである。今日行われている「文化」の認定も「無標」に対して「有標」になる、つまりスタンダートではない特殊なものと認められているという観点から考え直すと一概に喜べるものではないと分かる。<br />
<br />
<br />
第六章<br />
西洋・白人・男性の文化が有票化されず、無標のスタンダードとみなされる近代世界では日本人に対する認識も、「中心」の権力によるイメージ操作を通じた再帰的な（中心の側に都合の良い）現実世界の構築によって作られたものかもしれない。日本人論は世界において有標化された日本が、特殊性を合理化、ないしはその特殊性を乗り越えて「普通」と認めてもらうためのツールであった。「世界」をどこかよそから自国に迫ってくる存在として他律的に捉えてその評価を気にするという思考様式自体が、周縁化された地域の特徴なのである。<br />
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第七章<br />
「ジャパニメーション」の受け入れられ方の違いは各国の再帰的な価値観に依るものである。どのような表現が自然に行け入れられるかは各国の時代背景に依るものであり、安易に「伝統」や西洋の影響に結びつけてはならない。もっと相対化された「新歴史主義」「ポストコロニアリズム」的な視点からの検証が必要なのである。これらの「周辺」の地域から考える考え方を導入した場合、「ジャパニメーション」も実は近代西洋以上に普遍的な文化を発信する「中心」でありうるかもしれないのである。<br />
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第八章<br />
「日本」や「日本人」は再帰的なものであり、一義的な定義ができない不安定なものであったが消滅してはこなかった。それは我々が「物語」を通して、「日本」という観点からものごとを捉え、認識し続けているからである。しかし、1970年代後半頃から物語の再帰性が露わになり、世界は「大きな物語の終焉」を迎え、社会に共同体性を創りだすような力が、物語から失われていった。<br />
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第九章<br />
「大きな物語の終焉」に対して我々は国民国家という枠組みを放棄して「人類共同体」として生きればよいかと言えばそうではない。物語の再帰性は価値を否定しない上「人類」もまた再帰的なものに過ぎないからである。我々は近代になって進歩したつもりでいるが、結局再帰性のループからは逃れられていない。「この世界が再帰的であること」の認知は伝統から我々を開放してくれる喜びに満ちた体験であったが、ポスト近代の今我々は「全てが再帰的であり、自分の責任であること」を知って苦しんでいる。自己決定的な再帰性故に代替選択肢は数多く存在し、それに対して我々は立ち止まざるを得なくなっているのである。<br />
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第十章<br />
我々は意識しているかしていないかに関わらず、ものごとの決定基準たる「正義」を決定している。しかし、「功利主義」も「自己決定」もあらゆる「正義」は再帰的なものにすぎないため、どんなに理詰めをしても、どこかで我々の直感に反する部分が生ずる。この点において東洋思想の素朴な感情や反応を出発点とする思考様式が魅力的に映るが、両者に長短があるわけで一方への傾斜が良い結果をもたらすわけではない。我々はそのような再帰性の不適合があるからこそ常に今の秩序を相対化し、自分たちの「正義」を優れたものにしていけるのである。そして、周囲の環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーだけで通用する現実に作り上げることが人間の本質であり、人間のみじめさと、偉大さと、せつなさと、すばらしさと、そのすべてがある。<br />
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【感想】<br />
各学問の方法論について分かりやすく知れたのは勿論、「再帰性」という言葉を知れたのは良かった。家族との血のつながりというものも再帰的なものであるということは衝撃的であり、自分が普段あらゆるものを再帰的に定義していることが良く分かった。本書の最後にもあるように「大きな物語が終焉」する、ものごとがより相対化した今において、その選択肢の多さや再帰性に絶望するわけではなくて、その自由度や余地をポジティブでより良い世界に生きていきたいと思った。常日頃から思っていた「あらゆるものが相対化する中でも、日和見主義に陥らずに色々な選択肢を検討した上で自分の信念を持って生きていきたい」ということは、自らの意見の再帰性を認識した上でも、力強くそれを再構成し同じ社会のメンバーで（少なくとも自分と同じ意見を持っている人と）通用する現実に作り上げていくことなんだと思った。<br />
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    <category>書評</category>
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    <pubDate>Sun, 24 Nov 2013 14:40:55 GMT</pubDate>
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    <title>靖国問題【論点整理】</title>
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    <category>論点整理</category>
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    <pubDate>Sat, 23 Nov 2013 16:17:43 GMT</pubDate>
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    <title>子宮に沈める【映画】</title>
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    <![CDATA[新宿にある<a href="http://www.ks-cinema.com/" title="">K's cinema</a>にて「子宮に沈める」を観てきました。<br />
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大阪二児遺棄事件を元にした映画で、題名は「母親たちが社会が期待する『母性』によって苦しめられている」という意味から来ているそうです。今までで一番衝撃を受けた映画になりました。終わった後の映画館には物音一つ立ちませんでした。<br />
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<img src="https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRZ7WscztSUBRwhA99qM5_sbCrd1YgFVFbU4JfwZi3t2hcHN_kv" /><h3>【概要】</h3>優しそうな母親が幼い姉と弟の2人を優しく毎日世話するシーンから始まる。笑顔で愛情たっぷりに子供の相手をする母親であったが、夫は家を空けてばかりで帰って来なかった。母親は毎日夜遅くまで資格勉強や子供のマフラーを編んだりしながら、頑張っていたが、ある日久しぶりに帰宅した愛する夫は家を出て行ってしまった。<br />
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それからは生きていくために仕事をしながら、子育てもしなければならなくなった。仕事や子育ては大変で思うように行かないことも続き、ストレス解消に酒、タバコ、男に走るようになり、生活リズムも乱れていく。浮気相手にも大切にされるわけでもなく辛く孤独な日々が続くと、母親の中で何かが切れてしまい、子供を部屋に閉じ込めたまま自宅に帰るのをやめてしまった。<br />
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子供達はそんなこと露知らず母親が帰ってくることを待ちながら生活する。姉は弟のためにミルクを作ったり、あやしてあげたりしながら、必死に生きるが何日も過ぎると食糧は底をついてしまう。数日後弟は死んでしまうが、何が起きたかよくわからない姉は、暗闇の中無邪気に弟の誕生日をお祝いする。<br />
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それから数日たっても一向に母親は帰宅しない。弟の死体にウジやハエが湧く中、姉はマヨネーズや粘土の他、ゴミ山からも食べられるものは何でも食べて何とか食い凌いでいた。外にもトイレにも行けず、孤独な日々を送る。<br />
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ある日遂に母親が帰ってきた。しかし母親は無邪気に喜ぶ姉を尻目に、淡々と死んだ目をして、家のゴミや子供の死体を処理していく。そして最後には生きている姉を殺してしまう。<br />
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全ての処理を終えた母親であったが、子供のために作ったマフラーだけは捨てられなかった。2人の子供だけでなく、お腹の第三子も殺してしまった後、母親は後悔からか絶望からか号泣する。<br />
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最後に母親の手編みのマフラーがかけられた、子供2人の遺体が並んだシーンが映されて映画は終了する。<h3>【感想】</h3>観ている最中から、辛くて辛くて逃げ出したくなるような映画だった。あんなに良い母親だったのに誰にも支えてもらえない状況に追い込まれて、最後には糸が切れてしまった。<br />
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お弁当、お出かけに、夜泣きなど子育てはとてつもなく大変だということがよくわかった、そしてそれを一人で抱え込むことなどは絶対にできない。子育てのストレスだけでも耐え難いものがあるのに、全てが上手く行かなかった母親は人がすっかり変わってしまった。<br />
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最後のシーンでは愛情がまだ残っていた母親の後悔の叫びが痛いほど伝わってきて、誰が悪かったのか、どうしてこうなってしまったのか自分でもよく分からずひたすら辛かった。<br />
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また、置いて行かれた子供の描写も辛かった。弟思いの健気な姉がトイレにも行けない状況の中、飢えを凌ぐためにマヨネーズや粘土や腐った食べ物を口にしていたのは壮絶だった。弟の死体にはウジやハエが湧き、腐臭も酷かった。子供を放置して死なせた事件の裏にはこういった悲惨な状況があるということなのだろう。<br />
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あとは個人的に母親が家で男とセックスをしたのを子供が見ていて真似をするシーンに心が痛んだ。いくら大丈夫だと思っても絶対に見せてはいけない部分なのだろう。仮に姉が生き延びてもその後のトラウマにつながることになっただろう。<br />
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夫の協力が無かったこと、別れてしまったことが主な原因だが子供に責任はない。ただ、母親だけが悪かったのかというと全くそんなことはない、母親のみを責めることなど一切できない。責任は夫にもあるが、子供のために好きでもない人とずっと一生いなければならないのかと言われると正直よく分からない。そもそも、夫婦のみに責任を押し付けて、そこに社会が関わろうとしない限り悲劇は繰り返すだろう。<br />
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結婚も出産も大いなる責任を伴う、自分だけでなく他の人生を預かるとてつもなく大きな決断だ。世の中の人が「結婚して子供産んで、幸せになりたい」と簡単に言っているほどそれらが甘くないことは自明だが、本当に大変で重要な意思決定だと心から思った。単なる離婚なら構わないが、子供を巻き込むようなことは本当にして欲しくない。皆にも人の命を預かる、人生を左右するような重い決断だってことを分かって欲しくなった。<br />
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ただ、こんなに大変だということがわかった上でも自分は結婚にも子供を持つことにも憧れがあるし、それらが自分が幸せになるための道だという「幻想」を抱いて生きたいと思っている。だからこそ、「幻想」を「現実」に変えるために、きちんと相手を選んだ上で努力するし、誠実でいるし、やれることはなんでもやろうと思った。誠実でいることは大変だけど、実は幸せにつながっていて、誠実だからこそ楽に生きられると信じているので。<br />
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    <category>映画</category>
    <link>https://sangetsuki.edoblog.net/%E6%98%A0%E7%94%BB/%E5%AD%90%E5%AE%AE%E3%81%AB%E6%B2%88%E3%82%81%E3%82%8B%E3%80%90%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%91</link>
    <pubDate>Sun, 17 Nov 2013 12:57:37 GMT</pubDate>
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